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雑木の庭つくり日記

木を植えることは未来を植えること   平成24年4月8日



 ここはパシフィコ横浜、国際会議場です。
 昨日ここで開催された市民環境フォーラムに参加しました。
 フォーラムのタイトルは「東日本大震災の教訓を生かし共生社会の実現を目指して」
 財団法人地球環境戦略研究機関、国際生態学センター主催、特定非営利活動法人国際ふるさとの森づくり協会共催にて催されました。



  開始30分前の開場と同時に、大きな会議場は前席のほうから埋まり出します。
数百人の市民がこのフォーラムに集いました。
 ちなみに私はもちろん、開場と同時に最前列真ん中の席を取らせていただき、一言一句逃さぬ覚悟でこのフォーラムに臨みます。



 国際生態学センター長、横浜国立大学名誉教授、宮脇昭先生の熱いお話に聞き入ります。
 積年のあこがれの人、宮脇昭先生にお会いするために、今回私はこのフォーラムに参加したのです。
 宮脇先生の著書は、それこそ私が林学科の学生だった頃から20年以上の間に、これまで何冊読んできたかわかりません。
 しかしこの、宮脇昭という本物の人間の命と85歳とは思えない若さと情熱を、肌身で感じたい、今の私にそれが必要だと思い、今回参加させていただいたのです。

 稀代の植物生態学者、宮脇昭先生は日本の植物生態学の世界に初めて「潜在自然植生」という概念を確立させ、そして綿密で超人的な長年のフィールドワークを通して、日本の潜在自然植生図を完成させました。
 「潜在自然植生」とは「人間による土地への一切の干渉がなされない場合、その土地の気候風土によって最終的かつ持続的に安定して成立する植物相の姿」と定義されます。
 たとえば、関東全域では高地を除きほとんどの土地では、人間による活動が停止すると、やがてカシやシイ、タブノキなどの常緑広葉樹を主木とした多層群落の豊かな樹林となります。
 これが関東だけでなく、日本人の9割以上が住む東北沿岸部以南の潜在自然植生であり、それこそがその土地の本物の森であり本物の樹木であると宮脇氏は言います。

 そして、それこそがその土地の素顔というべき本来の自然の姿、人間を含むすべての生命を支えてきた自然の様相であり、数千年という長い年月を通して繰り返される大津波や地震、台風にも火事にもしっかりと耐えて、そこに生きる人などの命を支えてきた、本物の森なのです。

 今回の大津波でも、海岸沿いの松の木などは根こそぎなぎ倒されて津波に流されました。そして流された大木が家屋やビルを破壊し、津波の被害をさらに大きくしてしまったのに対し、その土地本来のタブノキやシイノキ、その下に生えるトベラやマサキ、ヤブツバキなども潮にも耐えて青々とした命を繋いでいたのです。
 そして、こうした木々は大津波の勢いを減殺し、海へと流される人や物を幹枝で食い止め、そしてすべての人工物が破壊され燃えた後もしっかりと生き残り、青々とした命を繋いでいたのです。
 
 自然の揺り戻しというべき今回の大津波、そのなかで本物の植生は生き残り、そして偽物は滅ぶ、それが冷厳たる自然の掟というべきものでしょう。

 世界各地でこれまでに市民とともに4000万本もの本物の苗木を植えてその土地本来の本物の森を作ってきた宮脇昭氏は今、被災地の海岸線300キロにわたって、コンクリートなどの人工物ではなくて、潜在自然植生の森による緑の防潮堤を築くべく、多くの市民とともに活動されています。
 
 
 
 宮脇昭氏(左端)の隣の方は、名古屋大学特任教授 安成哲三先生です。
 モンスーンアジア地域の気候変動研究の第一人者、安成先生は、日本という国が立地するモンスーンアジア地域で持続可能な社会を再生するために大切なこと、そして同時に、活断層が集中し気象災害が繰り返される日本などのモンスーンアジア地域に原発を立地することの危険性について、非常に分かりやすいお話をいただきました。

 豊かな自然は同時に、どんな人智も科学技術も及ばない恐ろしい面も普通に持ち合わせています。
 震災後、人間は自然を征服しようとする愚かな社会の在り方を反省して、そして自然界の掟に従い、自然との共存共生関係を本気で築いていかねばならない、今こそ人間の知恵と心が試されている時といえるでしょう。

 「何物にも代えられないのが命。一番素晴らしいことは今を生きているということ。未来の命を支えるために、大切なことはできることをすべてやること。」
 宮脇先生は言います。
これは、震災を経験した多くの方にとって共有できる考え方なのではないでしょうか。
 



 宮脇昭先生が提唱する森の防潮堤、それを実際に東北で先頭きって推進しているのが宮城輪王寺の住職、日置道隆氏です。日置氏はこれまで8年間かけて、境内にふるさとの木によるふるさとの森つくりを市民、子供たちとともに進めてこられました。
  今、日置氏は「命を守る森の防潮堤」推進東北協議会会長として、この素晴らしい計画を実行すべく、先頭に立って進めようとしています。
 
 ふるさとの木による森の防潮堤、それは生命の塊というべきものです。その土地本来の木々による森は管理の必要もなく、自然のシステムに従って永遠に森を維持しながら、様々な生命を育てます。
 コンクリートの防潮堤は数十年で劣化するため常に作り替える必要があり、また壊してしまえばゴミになります。
 自然を支配しようとする発想から、命を尊重し自然と共存共栄した文明を築くべく、今こそ硬直した発想を脱却して、命という価値の原点に戻らねばなりません。
 命、それは、なくしてしまえば何もありません。



 会場の外で紹介されていた、ドングリから育てた潜在自然植生樹木のポット苗です。これらの苗を密植し、そして植栽後は自然の淘汰と競争に委ねて、将来の豊かな本物の森になるのです。
 植物生態の掟に従った植栽方法と本物の木による森つくりであるがゆえに、人の手による管理を必要としない自立した森が作り出せるのです。
 今後、私の造園、街づくりでも大いにこの方法を取り入れていかねばならないと確信しています。

 宮脇氏は、植生調査と自然生態系のおきてに基づくこうした森つくりを世界各地で実践してきました。
 


 そしてこれは、2008年に私の地元のスーパーの外周に宮脇先生が市民数千人とともにポット苗を植え付けられた緑地です。
 4年を経て、すでに樹高3m以上の小樹林が育っていました。

 「木を植えるということは、未来を植えるということ。」宮脇先生は言います。
世界各地で市民とともに命を守る本物の森を作り続けてきた本物の人の言葉が、ちっぽけな私の胸にずんと重く響きわたります。
 未来の地球が豊かな命を支えることのできるものであるよう、本物の木を植え続けてきたのでした。
 感動が自分を変えていきます。フォーラムの中、先生とお話しできたのはほんのわずかの時間でしたが、行き詰まりを感じていた私にとって、震災後の長いトンネルをようやく抜け出すことができそうです。
 
 


投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
千葉大学 記念樹林植栽    平成24年3月16日
 

 ここは千葉大学西千葉キャンパス。ケヤキやクスノキ、マテバシイなどの大木が構内の景色を潤し、学問の府としてのキャンパスの歴史を物語ってくれているようです。
 大木の存在は、その土地に風格を感じさせてくれます。

 今日は記念樹植栽のために、この美しいキャンパスを訪れました。



 記念樹の植栽場所は、千葉大学本部庁舎脇の駐車場内緑地スペースです。ここに植栽することで、奥の木立との植栽の連続性が生まれることで、効果的にこのキャンパス風景を潤すことができる、そう考えてこの場所を提案しました。



 ところが、掘りはじめたらすぐに硬化した砕石層が出てきたのです。植栽用のスペースなのに、掘るとすぐにこうした砕石や建築廃材などが埋まっていることがよくあります。後先考えない土木業者がアスファルト道路整備工事の際に、一緒に下地の砕石を敷きならした上に硬化剤を撒いて、さらにローラーで転圧してしまうことがあるのです。
 私たちが、植栽した木々を健康に育てるためには、この砕石層を何が何でも取り除かねばなりません。
 スコップは全く歯が立たず、こつこつとバールで崩して、植え穴を掘っていきます。
 穴一つ掘るのに1時間、この日植栽予定本数は合計20本余り、、、。
 急きょ助っ人を依頼します。



 穴を掘ること2時間、午前10時。そこに助っ人の松浦造園の松浦亨氏が、削岩用のハンマドリル2台持って途中参戦です。にわかに仕事がはかどります。



 硬い地盤を穿ち、土を入れ替え一本一本木を植えて、小さな樹林を作っていきます。
真ん中の主木が高さ7mのケヤキ、それに高さ5m前後のコナラやアカシデなど、千葉の里山を構成する雑木を寄せて植えていきます。
 木を植えて、そして強く健康に育ててゆくためには、樹種にもよるのですが、広い場所に一本だけ独立して植えてゆくような方法では、なかなかよい状態の高木に成長していかないことが多いのです。だから、こうして一つの木立として植栽し、お互い守り合い、競合しあうように配植していきます。
 密植して競争を促す、これは野菜でも木でも、それに人も一緒なのです。
 若いうちは仲間と張り合い、助け合い、補い合い、競争し合ってはじめて、強く健全に成長してゆくことができる、木も人と同じです。



 数坪の植栽スペースに12種類25本の木々、単木の植栽では決して出せないボリューム感が、アスファルトの車道を潤します。



  今回依頼をいただいたのは、ちょうど半世紀前に、このキャンパスに入学された方々です。
 そして、記念樹ではなく、記念樹林とあります。
 都市緑地に新たに補植する場合、単木で植えるよりも相性の良い樹種を織り交ぜて木立として植栽する方が木々にとってはるかに健全で、そしてそれによって通る人や見る人の愉しみも大いに増すのです。



 美しいキャンパスの景色を補う記念樹林が完成です。これから長い年月をかけて、木々は成長し、様相を変えていき、そしていつの日か、成長したこの木立がきっと、未来のキャンパス風景の一角となることでしょう。
 春の芽吹きが楽しみです。

  今回の記念樹林植栽に当たり、ご理解ご協力をいただきました大学関係者の皆様、同窓会の皆様に心からの御礼を申し上げます。 


投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
阿蘇神社 門前町商店街の再生    平成24年3月9日
 震災から間もなく1年が過ぎようとしてる今日、熊本県の阿蘇神社門前町商店街の方から、再生されて活性化した街の写真がたくさん送られてきました。



  活気あふれる阿蘇神社門前の商店街。緑溢れ、木漏れ日の下を観光客が行き交います。
  ここは阿蘇神社門前町商店街。今、この街を訪れる観光客は、年間20万人と推定されます。 つい10年前までは、ここは商店街のシャッターが軒並み閉まったままの、廃れた過疎の町だったとを、この写真から一体だれが想像できるでしょうか。

 そうです。この街は日本のどこにでもある、地方の寂れた商店街だったのが、地元の人たちの努力によって再生されて、今は阿蘇観光の名所コースにまでなったのです。

 この商店街を彩る木々は、つい数年前に、阿蘇に根付く孤高の人、グリーンライフコガの古閑さんの提案によって生まれました。




 数年前、潤いのない、寂れた商店街に、古閑さんたちの先進的な提案と地道な説得によって、こつこつと大木が植えられていきました。
 


 大木が植わると、街の景色が変わります。通る人も立ち止まって作業を見つめます。
大きな木を植える、古閑さんの信念によって、この街の景色は奇跡のように変わったのです。

 「大きな木を植えないといけない、そういうと、落ち葉が大変とか雨樋が詰まるとか、いろいろと反対されたのですが、なんとかそれをクリアして、みんなを説得して、それでやっとこんなことができました。」

 阿蘇特有のイントネーションで古閑さんはそう言います。その言葉から、ここに至るまでの古閑さんの信念の強さと苦労が偲ばれて、久々に体の芯からの感動が湧きおこります。
 尊敬と感動以外のどんな感情もおこりません。



 木々がなく、潤いのなかった廃れた街、それがこうして、家屋際のわずかなスペースのコンクリートをはがして植栽スペースが造られていきました。



 商店街の家際のわずかなスペースのコンクリートをはがした後、そこに一本一本木が植えられていきました。植えている人が古閑さんです。
 顔が映っていなくても、写真を見てすぐに、「あっ古閑さんだ!」と私には分かります。



そして、通りに面して家際のわずかなスペースを提供し合って植栽された木々が風景として繋がって、美しい街が新しく再生されたのです。



「木を植えると、これほど人が集まるのか。」今、この街は廃れた街を再生した成功例として、全国から行政関係者や街おこし関係者が視察に訪れると言います。

 木や風景は何気ない存在です。しかし、それがあるからこそ、人が自然と集まる心地よい空間が生まれます。

 こんな素晴らしい街が再生できたのも、古閑さんの先見性と熱意が大きな力となったのだなと、私には分かります。

 今、私は古閑さんと一緒に、鹿児島県姶良市に緑あふれる分譲地計画を進めています。
 こんな素晴らしい人と出会い、そして一緒に仕事できる幸せをどのように表現すべきか、言葉が見当たりません。



 商店街、今は桜の時期には地元の人たちが花見のために通りにあふれ出します。こんな光景、10年前にだれが予想できたことでしょう。寂れていた10年前にはこの桜の木立すらなかったのですから。

 奇跡の再生です。人の力のすごさを感じ、私もこんな仕事をしたいと、忘れかけていた情熱が久々に心の中で燃え始めました。

 今。あの震災から間もなく1年がたとうとしています。日本の再生、被災された街の再生、しっかりとした思想を持って臨めば、心豊かでその町らしい形で、以前よりも発展していくことができる、そんな可能性を感じさせられた写真でした。
 
 商店街の瀬上さん、どうもありがとうございました。

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
茅葺きワークショップ      平成24年1月28日



 ここは茨城県石岡市、国指定有形文化財の大場家住宅です。
江戸時代末期に建てられ、今も大場家一家の居宅として活きています。



 美しい屋根です。軒や棟の装飾に、筑波山麓の茅葺き家屋の顕著な特徴が見られます。



 軒先の重ね合わせの表情。
稲藁、古茅、丸竹、新しい茅、杉皮と、美しい軒先の模様を見せています。




 茅葺き屋根の棟の小口の装飾は筑波流と呼ばれ、これほどの装飾は全国でも随一と言えるかもしれません。
 この豊かな装飾が、筑波山周辺の茅葺き屋根を特徴づけています。



 棟の真ん中に設けられた、囲炉裏の煙出しのための越し屋根。袴板には寿の文字が装飾されていました。
 かつて、筑波山麓の茅葺き職人たちが競って発展させてきた伝統技術も、今はその担い手もほとんどいなくなってしまったそうです。

 茅葺き屋根がもたらす美しい里の風景、日本の宝と言うべき風景、こうした価値が近年急速に見直され始めてきました。



 茅葺き技術やその素晴らしさを伝えるべく、今日、この大場家で、茅葺きのワークショップが開催されました。 
 やさと茅葺き屋根保存会の主催で、東屋の茅葺き屋根の葺き替えをみんなで体験するというイベントです。
 このイベントに、遠い他県からもたくさんの人達が集まりました。



 地元筑波で刈り取ったススキ茅を束ねて、穂束を作るのは、83歳の茅葺き名人です。



 そして、80歳代の名人に弟子入りして茅葺きを学ぶ、20代の若者です。名人の下には、実に50年以上もの年月のブランクがありました。

 ちょうど、1960年代に燃料革命があり、我々の暮らしの資源が身近な自然から石油石炭などの化石燃料にとって代わられた時期から高度経済成長期の世代まで、すっぽりと間隔が空いてしまい、こうした大切な技術や暮らし方の伝承が、経済至上主義を信じて疑わずに邁進していた間に途絶えかけてしまったのです。

 そして、私たちの暮らしから身近な自然が遠く離れていき、様々な問題抱える矛盾した社会と引き換えに、経済的な豊かさを手に入れた日本。
 それと同時に私たちが見失ってしまった豊かな心。

 しかし今、こうした旧来社会の価値観にもようやく変化の兆しが現れてきたようです。
 自然を活かして成り立ってきた暮らしの大切な技術が完全に途絶える前に、今、息を吹き返そうとする胎動が、こうした若者の存在の中に垣間見られるように感じます。
 


 茅葺き職人の指導の下、大勢の人たちが交代で屋根に登って茅を葺きます。



 筑波山麓、石岡市の風景。中山間地の豊かな風景。この風景と共に営まれてきたのが、茅葺き屋根の家屋でした。そしてそれこそが、人と自然とが共生してきた農山村文化の象徴的な光景でした。

 茅を刈り、屋根を葺き、そして余った茅を煮炊きの燃料や飼料、田畑の肥料に利用する。そして数十年に一度の屋根の葺き替えの際、大量に発生する古茅は、最良の肥料として大地の作物に還元されるのです。
 エネルギーを含め、資源の全てが循環し、ごみなど全く発生しない、そんな暮らし方が農山村ではつい近年まで続いていたのです。

 それが高度成長と共に、これまで永続的に営まれてきた自然由来の暮らしの資源が、化石燃料に取って代えられ、そしてその美しい農山村の風景も文化も永続的な暮らしの知恵も失ってしまいました。

 そうした中、今、化石燃料に頼った文明の限界に多くの人たちが気付き、かつての素晴らしい暮らしの知恵を、新たな社会の構築や、豊かな暮らしの中に再生していこうとする人が急速に増えてきたように感じます。
 その象徴たるものの一つが、美しく機能的な茅葺きの文化と風景と言えるでしょう。

 今もなお過ちの文明の中、祖先が築き、伝えてきた美しい国土が汚され切り刻まれ続けている中、未来のため、そして私たち自身のために大切な生き方暮らし方を見直す動きが大きくなり、そして、こうした動きがもしかしたら、何か大きな変化を生み出すかもしれない、そんな可能性を感じさせられたワークショップとなりました。

 主催者方々、ご指導くださいました茅葺き職人の方々、大場家の皆様、どうもありがとうございました。


 
 
 
投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
茅葺き屋根技能研修 in五箇山  平成23年11月22日 


 ここは富山県の山間の里、五箇山相倉集落です。
 冬は雪に閉ざされる山奥の集落に、美しい合掌造りの茅葺き屋根で有名な民家の風景が今も残ります。



 合掌造りの屋根の名称は、屋根の破風のラインがちょうど人が合掌した時の両腕のようにとがった三角形に見えることに由来します。
 山間奥地にひっそりと伝わる合掌の里、山間の風景にこの屋根の形が実によくなじみます。そして、この土地で長年の間、敬虔に命を繋いできた山人の暮らしと文化が偲ばれます。



 五箇山地方の茅葺き屋根の特徴は、破風(はふ)と呼ばれる屋根の側面に顕著に見られます。
隣接する集落、白川郷の茅葺き屋根の破風は、きれいに刈りそろえられているのに対して、五箇山の破風は刈りそろえられることなく、なんとも柔らかな丸みを帯びています。山奥の素朴で優しげな暮らしぶりが、この屋根の形状に現れているように感じます。



 茅葺き屋根の軒裏の表情。五箇山では昔から、アサギの穂を軒先の下地に敷きつめてから、茅をかぶせていきます。
 茅とは、屋根の材料に使うイネ科植物の総称ですが、この五箇山や白川郷などでは、カリヤスと呼ばれる繊細な茅の穂を用いて屋根を葺いてきたようです。

 茅葺き屋根の家屋の中は夏でもとても涼しく、どんなに暑い日中でも中に入るとひんやりした空気が流れています。茅の断熱効果に加えて、水分を含んだ屋根からの蒸散による気化熱の放出によるところが大きいのでしょう。
 今は失われつつある、かつての素晴らしく機能的な茅葺き屋根が、最近になって見直されてきているようです。
 一つの屋根を葺くために用いる茅の量は膨大なもので、その作業も多大な労力を要します。
かつては「結」(ゆい)と呼ばれる集落ごとの無償の労力交換によって、茅葺き屋根が世代を越えて、日本の歴史の中で維持されてきました。
 またそれは、農林業を生業とする自然と共にある暮らしの中で必然的に生み出されてきた光景とも言えます。



 先の週末、この世界遺産集落 五箇山で、茅葺き技能講習が開催されました。
 主催者は社団法人日本茅葺き文化協会(代表理事 安藤邦廣筑波大学教授)です。
 この講習会に日本各地から定員をはるかに超える、50人近い参加者が集ったのですから、いかに茅葺き屋根の関心が高まっているかがうかがえます。
 私も社員達と共に、研修会に参加しました。



 屋根葺きは、破風(はふ)と呼ばれる屋根の側面から始まります。この破風の収め方に、五箇山の特徴が凝縮されています。鋏を使うことなく、茅の自然ななりのままに束ねていきます。これが五箇山独特のなんとも言えない温かみのある屋根の表情を作りだすのです。



破風の部分に何重にも茅の束を積み重ね、そして藁縄で結束していきます。何重にも結束されることで頑丈で耐久性の高い屋根に仕上がっていきます。



 破風の取り付けの次に、屋根尻と呼ばれる軒の部分にアサギを結わえていきます。



アサギの束を荒縄で結わえていきます。金具を使うことなく、全て身近な植物由来の材料で組み立てられてきたのがかつての家屋です。その土地の自然の材料を使って自然になじむ家屋が生まれ、そしてそれは家としての役目を終えた後には、その土地の土に帰していきます。
 そんな素晴らしい住まいが、つい数十年前までずっと受け継がれていたことを感じます。



そして、屋根尻のアサギの取り付けの後は、ようやく茅を葺いていきます。下から上へ、何重にも結束し、重ねていきます。こうして雪国の風雪にも耐える屋根が出来上がってゆくのです。



 破風、そして茅の平葺きに取り掛かったところで、今回の技能研修はタイムリミットとなりました。
 体験できて本当によかったです。何事も、実際にやってみなければ前に進みません。



 11月の五箇山。刈りたての茅を家の周りに立てかけた雪囲いの景色が見られます。



 雪囲いの風景。屋根から壁面まで、全てが茅に包まれます。



 茅葺きの風景を支えるススキ茅。集落の風景はその土地の気候風土と暮らしが作りだすということを改めて痛感させられた研修会となりました。

 世界遺産に指定されたこの五箇山の茅葺き屋根、しかし、後世に伝えるべきことは、遺産としての屋根ではなく、土地の自然の中で育まれた文化と暮らし、そしてその結果として生み出されたのが、この美しい集落の風景なのです。
 形ばかりを残しても仕方ありません。自然と共生した永続的なかつての暮らし、その中で育まれてきた文化、と風景、私たちが今後、永続できない今の文明を乗り越えて、新たに永続的な暮らしを手にするために必要な知恵、そんなものが茅葺き屋根の風景の向こう側に隠されているようです。

 お世話になりました地元の皆様、そしてご指導いただきました茅葺き職人の皆様、この企画を開催されました日本茅葺き文化協会の皆様はじめ、関係者方々に心より御礼申し上げます。



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
         
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