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雑木の庭つくり日記

連休の山行 子供が教えてくれること  平成29年5月7日
 

 「親(を)想う (子の)心に勝る 親心・・ 」
と言いますが、実際にはそうではなく、親に対して子供の持つ無意識の愛というものは、まるで自然そのもののように温かく、そして無限の大きさをもって降り注いでくれます。そしてそれが無意識のうちにも親を導き、一番大切なことに気づかせようとしてくれている、、そんなことに気づかされた、連休の旅となりました。

 ここは八ヶ岳山麓、湧き出す清流を集めて岩間を伝い流れる、川俣川渓谷。
 今もなお、心身の不調で時折強い痛みを発する私の次男、この日も、この写真のつい数十分前までは一人で歩けないほど痛がっていたのですが、それがこうして磁場のよい山懐に分け入ると、あっという間に痛みは消えて駆け回り、はだしになって岩の上を伝い飛び回るのです。

 ようやく私にも、もともと感性の高いこの子の魂が、私たちに何を伝えようとしているのか、子供の体調と向き合う中で、おぼろげながらも見えてきたように思います。
 彼の曇りなき眼と心で感じるものは、気の世界、良い気に満たされている時や人や場では、こうして元気な姿を見せてくれるのです。

 彼の魂との対話はまるで宇宙との対話のように思えてくるにつれて、ここ数か月ずっと彼は自らの痛みを通して、私たちの心を導いてくれたように感じます。

 忙中の閑、一泊の山巡りですが、心晴れ渡る、会心の山旅となりました。
 道中ざっと簡単にご紹介したいと思います。



 八ヶ岳のすそ野を横断する小海線の橋梁が渓谷を渡ります。
 私にはとても懐かしい路線です。



 水木の相性ずるエネルギーの高い場所は、大人も子供も体中が活性化されます。こうした見えないものへの感性を失わぬ子供たちは磁場の高い岩へと吸い込まれるように登っていきます。



 高原の春は遅く、ようやく芽生え始めた新緑の渓谷に、子供たちは豊かな表情でいつまでも飽きずに遊びます。



 岩間から湧き出す吐竜の滝。



 いのちの源、限りなく清らかないのちの水は、こんなところで生まれて絶えず、生きとし生けるすべてのものに無限の恵みを与え続けてくれるのです。



 椅子型のくぼみのある岩を見つけてそこに座って滝を鑑賞し、悦に入る子。
ずっと痛みに耐えてきたわが子のこんな晴れやかで楽し気な表情を見るにつけ、すべての子供、そして大人が日々、こんな心に戻れる場所がありますように、そんな祈りが自然とこみあげます。





 岩間に張り付き根を絡ませてゆく木々の力強さ、それを育む岩の力



そして翌朝、雪の北八ヶ岳を歩きます。深い残雪の中、春の気配と鳥の声に導かれて歩きます。


 樹幹の体温が周囲の雪を溶かします。




 雪深い森の中、コメツガの幼木は古い下枝で雪を受けてしなり、それが傘のように幹を雪から守っています。その姿はまるでフウチョウのような滑稽さがあります。
 寒山に生きる木々の智慧を感じる光景です。



岩の上に根を下ろす木々、おおよそ原生の森は、倒木や岩の上にこぼれ落ちた実生が成木として生き延びていきます。



 森の瞳のような、氷の白駒池。吸い込まれるような透き通った空の下、この地の営みは太古から変わらず季節を繰り返し、いのちを養います。



ランプの宿、懐かしの高見石小屋。
20年ぶりの訪問でしたが、変わらぬ温もりに心満たされます。




 高見石の上に登ると、そこに八ヶ岳周辺の大パノラマが開けます。



 街や学校では、階段を登れぬほどに痛み消えぬ子ですが、神々しく息づく環境に身を置くとすたすたと飛び回り、はい回り、そして晴れやかに、まるで細胞の一つ一つが瞬時に入れ替わるがごとく再生されるようです。

 人は自然の一部、とはよく言う使い古しの言葉ですが、それでも永遠の言葉なのでしょう。
 自然環境の健康なくして人の健康はありえない、それを教えてくれるのが子供たち、彼らが心生き生きと輝いていられる環境こそ宝であり、それこそが何を差し置いても大切にして育まねばならないものなのだと、改めて感じさせられます。
 
 私たち大人よりもはるかに優れた存在、いつも神様の隣にいるのが子供たちです。
 私たち大人、そして社会は、そんな子供たちから学び、日々の暮らしや心模様を軌道修正してゆくことが、今もっとも大切なことのようにに思います。

 自然のメッセージを受け取る子供の心に大切に向き合い、邪魔をせず、学び合い、育ちあいたいものです。

 この山行の最後にお会いした知人がこう言いました。

「それが子供の親への愛ですよ。本当に、子供の愛は、時に自分の命と引き換えにしてまで、親に大切なことを気づかせようとしてくれますから・・」

 すべての導きに感謝があふれます。



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
夏山の記憶      平成28年9月12日

 相変わらず東奔西走の日々の中、ブログ報告ができずにすいません。

「最近ブログが更新されていないけど、お元気ですか。」 ひと月もブログ更新が滞ると、お客様からそんな電話やメールが続きます。
 ブログを楽しみに待ってくださるお客様がこうして連絡くれることは本当にありがたいことです。
そろそろ書かないと、そんな思いで時間を作り、写真を整理し始めるのですが、こうして激しく走り続る私の一か月というものは本当に、皆様にお話ししたいこと、報告したいことが山ほど積み重なります。
 今後はあまり溜め込むことなく、コツコツと日々、短い文章で感じた事、思うこと、徒然と報告していきたい、そう思います。

 さて、今回はこの夏の山行報告にとどめたいと思います。
 



 高校2年の時から登山を始めて、今年で30年になります。導かれるままに山を歩き、森を旅し、自然の息吹を五感で感じ続け、そして今の自分があります。
 
 息をのむ大木の生気、そして今もなお、清らかに語りかけてくるいのちのにぎわい、そんな中に身を置くことで、自分の使命と役割が与えられ、そして道が開けてきたように思います。
 これからも、自然の息吹に身を委ね、そこで感じ考え、行動し、そしていずれこの世を去るときは、草の褥に迎えられて眠るように大地に還っていきたい、その時はまたまだずっと先なのでしょうが、、、こうして日々走り続ける人生の中、たまの休みの山行で、まるで魂の故郷に帰ってきたような懐かしさとともに、あらゆるいのちと一体である我の存在を改めて感じるのです。



 今回の山行は30年前の夏を振り返る一人旅です。
北アルプス穂高連峰涸沢カール。ここから日本第3位の高山奥穂高岳に登ったのがちょうど30年前の夏だったのです。
 その後、幾度となく穂高連峰に足を運びましたが、30年区切りの年、この地を再び訪ねました。



 切り立つ稜線を縦走します。
 この山域は日本アルプスの中でももっともダイナミックな岩稜と言えるでしょう。
 多感な17歳の夏、あの山の頂に立った時の興奮を今も忘れません。



 滝のように流れ落ちる雲の動きは刻々と変化し、見ていると頭も心も心地よく冴えわたり、いつの間に時間が過ぎてゆきます。
 山を伝う雲の動きに地球の空気の流れを知ります。



 山麓の上高地で迎える晴天の朝。朝もやが沸き起こって木々を伝いそして空へとのぼっていきます。

 守るべきもの、育むべきもの、それは健全な大地の呼吸であることを確信します。降り注いだ雨がきちんとと大地に染み渡ってあらゆるいのちを潤し育み、そして土中で浄化されて湧き出し、海へと還り、そしてまた循環する、絶えず循環しながら再生される水と空気の中で我々人も生かされます。

 太陽や大地と一体のリズムで動く気の流れを全身で感じることができる場所も今はずいぶんとなくなりました。
 大地の空気と水の循環、本来の姿を感じること、その大切さを伝えたい、そんなエネルギーが全身に注がれます。



 森の環境が育ってくると、そこは多種多様な植物、生き物同士が拮抗作用を起こすことなく共存共生の場となってきます。
 そしてそこは植物や動物たちだけでなく、人にとっても心休まる心地よい環境となるのです。
 そこに流れる調和の響き、大地の声、心地よい空気と香り、そんな本当の環境のよさを感じる能力すら、多くの人は失ってしまいつつあります。
 力を持った環境を感じる感性、これを多くの人に取り戻してもらい、そして特に、子供たちに少しでも体感してほしい、本当の優しく包み込むような自然(いのちのふるさと)をよりどころにしてもらいたい、そんな思いばかりが強まります。



 サルのお母さんが子猿に木の実を手渡しています。
 豊かな森の環境では野生動物もテリトリーを守り、すみ分けるもの、環境を荒らさぬもの。彼らの生きる基盤たる豊かな環境を人に荒らされてしまえば、彼らはその行動を変えていきます。
 我々人の在り方、一つの命の循環の中、そんなことを謙虚に顧みて人間社会の在り方を修正できるよう、人は進化しないといけません。
 進歩ではなく、進化しないといけない、そんな思いが今高まります。



 今年の夏の山行はそれだけでは終わりません。いつの間にか小6になった長男と次男を連れて中央アルプスを縦走します。
 小学生のうちに3000mの世界を体感させたい、今年が最後のチャンスです。
 わが子が生まれたとき、いつか息子と一緒に山に行きたいな、漠然とそう思ったものです。



 稜線の頂にて。



 木曽駒が岳山頂にて。



 稜線の夕景。雲海の向こうに浮かぶのは木曽の名峰、御岳です。高山の冷気を青く包み込む日没の稜線は心洗われる時間です。



 ダウンジャケットにくるんで寒さをしのいで夕日にカメラを向ける次男(小3)。



山頂で迎える翌朝の日の出。



 そのわずかなひと時、山々も岩肌も一瞬ピンク色に染まります。



 子供は親が思う以上に強いもの、直角に切り立つ岩峰も物おじせずに歩みます。
 
 私の山行や旅はいつも、様々な調査や発想を得ることを目的の一つとすることが多く、そうしたライフワークの真剣勝負の旅に子供を連れてゆくことはあまりありませんでした。
 わが子がそうしたことに興味を持ってくれたら、時期が来たら、一緒に旅できればうれしいという思いが膨らみ、今回子供と一緒に登ったのでした。

 子供はいつの間にか、父親が思う以上にいろいろなことが分かっていて、そして私の想いも、私が今真剣に取り組んでいることの意味も、実はよく分かっている、そんなことも、今回の水入らずの山行で感じた時間となりました。



 夏休みの終わり、大学生となった甥っ子たちと、おなじみのちばダーチャフィールドで過ごします。
 どうも、僕は身内や子供の話をブログに書くのは苦手ですが、、恥ずかしながら少しだけ、今回は思いをつづりたいと思います。
 



 今年大学生となった甥っ子次男は今、北海道の大学で自然環境を学んでいます。
薪割りが大好きで、北海道でも人に頼まれて率先して薪割りを楽しんでいるようです。山が好きで、生き物が好きで、子供が好きで、大学生活を全身で楽しんでいる。生まれた時から知っている、あの元気なチビ助だった甥っ子が、いつの間にかそんな好青年になっていたことに感慨無量な思いです。




そして長男は今、大学院で建築を学びながらも、自然環境と人の営みのはざまにおいて、未来にあるべき建築の在り方を真剣に考えようとしています。


 「これからの建築は絶対に環境全体から考えなおさないといけない。環境と言っても、エコ住宅とか、ゼロエミッションとか、自然素材とか、そんなうわべだけの浅はかなものではなくて、最先端を知らないといけない。自然環境というものの本質を感じて、知って、そこから組み立てなおす気概が今必要だ。」
 私は建築を学ぶ甥っ子にいつも熱くそう言います。

 僕が苦悩と青春真っただ中の23歳の時に生まれたこの子も今は23歳。月日の流れは本当に絶え間なく、そしてすべてが育ち、すべては移ろっていきます。
 確実に未来を担うこの子たち、その成長に目を見張ります。

 それだけ自分も年取ったことを感じますが、こんな若者たちの生きる時代が良い世の中となるよう、ますます決意を新たに力みなぎります。









投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
伊勢神宮が伝えること      平成28年3月6日


 日本あけぼの、神話時代から連綿と続く神々しい世界の名残が今も感じられる伊勢神宮。
 今もなお、毎年1000万人前後の参拝者が訪れる、日本第一の祈りの地であり、日本人の心のふるさとであり続けています。
 これほどの参拝者が訪れるのは、神宮1300年の歴史を通してずっと変わることなく続いてきたことのようで、例えば江戸時代文政三年(1830年)の記録では、3月から9月までの半年間で約450万人の参拝者があったと伝えられています。
 馬にまたがるか、あるいは歩くほかに交通手段のない時代でありながら、年間数百万人もの参拝者たちが毎年全国から大挙してきたという事実、しかも当時の人口が3千万人程度だった時代のことですから、伊勢神宮が日本人の魂にとって、その中心たるものであり続けてきたかが感じられます。



 参道を歩きながら、触れることができるほどのすぐそばで、樹齢数百年の巨木が点在する神々しいほどの荘厳な自然環境に触れることがほとんどできない今のような時代こそ、伊勢神宮の杜はその存在の意義を今後ますます増してゆくことでしょう。

 これほどの人の往来を、1000年以上の間、受け入れ続けてきたにもかかわらず、自然の息吹を神として敬い守り育てながら、その中に人の営みを共存させてゆく、そのことこそ、この地が伝えようとしてきた根本的なものなのだと感じさせられます。



 自然環境を傷めずに育てながらなお、人の営みをそこに保ち続ける姿勢と技、人の営みが豊かに持続するために、絶対的に必要な根本たることを、この伊勢神宮は20年ごとの式年遷宮という形で現代に至るまで伝えようとしてきた、そのことを私たちは、しっかりと知る必要があるように思います。



 伊勢神宮という日本最高峰社殿における唯一神明造と呼ばれる建築様式。そのもっとも大切な点は、全ての社殿が柱を大地に直接埋め込む掘っ立て構造にあります。
 現代建築の世界では、掘っ立て構造の建物などもっとも原始的とされ、大地に多大な負荷をかける一時の頑丈さばかりのコンクリート基礎構造以外はほとんど誰も考えない及ばない、そんな時代にあってなお、世界に誇る日本最高社寺の式年遷宮を通してこの構造をかたくなに伝えようとしてきたのです。



 
 伊勢神宮が掘っ立て構造である意味は、大地との共存、足元の環境に対して配慮を欠かさぬという、あるべき姿勢が永遠に保たれることへの祈りが本来込められているのでしょう。

 それはまるで、母なる大地、自然環境を大きな力で踏みにじって顧みることもない今の日本を見越して、神々が息づいていたはるか昔の日本からの警鐘のようにも感じます。
 でも、今、我々の社会はそんな大切な神からの警鐘さえも聞く耳を失ってしまいつつあるようです。

 なぜ、式年遷宮という大規模な建築造作が20年おきに、しかもこれほどの参拝者を1000年以上も迎えつづけながら、精気を持つ森を社殿のすぐそばに保ちえるための配慮や造作の名残を見ていきます。



 
 都会に勝るとも劣らないほどの多くの人の往来を受け入れながらも、伊勢神宮の素晴らしい環境が今日に至るまで守り伝えられてきたのは、この地を敬い、自然を敬い、神を敬う崇高な先人たちの絶え間ない観察と愛情と努力があったということが、境内の様々な造作から感じられます。

 それは特に、参道周辺の造作から感じられます。たくさんの往来による激しい踏圧のかかる参道は縁石によって区切られてやや高く、段上に配されます。そして、周辺の森との縁にはこうして素掘りと石積みによる溝が切られ、参詣による締固めの悪影響が周辺環境に及ばぬように配慮されているのです。そしてこの溝には絶えず杜からの絞り水が湧き出し、そのことによって土中の水と空気を絶え間なく動きます。
 溝に集まった湧水は、溝の中の小石の合間をはねながら流れ、そして多くは土中に潜り込んで大地を潤してゆきます。



 宮域において、人の造作や往来のインパクトが及ぶ場所には必ず、円滑な大地の呼吸をつぶしてしまうことのないように、絞り水の通り道・浸透溝が確保されています。



それが本殿前の主要な参詣道の下にもくぐらせている様子に、先人による自然環境への徹底した配慮と理解と智慧が伝わり、心が震える思いです。



  山の縁にもこうして、人の踏圧が山の呼吸を乱すことのないように、きちんと溝が切られます。
 これこそが、これほど多くの人が1000年以上もの間訪れておりながらもこれほどの精気を伝える杜を残してきた、その要の所作とも言えるでしょう。

 起伏があれば、山から谷に向かって水は土中を常に動きます。
 そしてそれが土中の通気を促し、様々な土中生物活動を豊かに育み、そして木々が健康に根を張ってゆく環境を豊かにしてゆくのですが、斜面下の平地で行われる人の所作や負荷によって平地での土中水の動きが滞ると、斜面の土中の水と空気の円滑な動きをも阻害してしまいます。
 そうなると、もともと健全な環境下で生育してきた草木は呼吸が妨げられ、森も木も、そして生態系全体も、人知れず急激に劣化していきます。
 人間を含むすべての生き物は、水と空気の流れを通して息づくもので、それが短時間であっても滞ってしまえば死んでしまうのと同じく、自然環境が息づく根本たる必要条件こそが、大地の円滑な水と空気の動きなのです。

 どんなに時代が変わろうと、普遍的で失ってはならないもの、大切なもの、その本質を、式年遷宮に伴う大工事において、かつての賢人たちは未来永劫の子孫たちに対して伝えようとしてきたことが、しみじみと感じられます。

 しかるに、ここ伊勢神宮では、我々の存続の母体である自然環境そのものを神としてうやまい、それが決して抽象的な概念にとどまるのではなく、こうして遷宮に伴う大工事や様々な年間行事を通してなお、周辺の環境を悪化させることなく、人の営みをつつましくそこに割り込ませていただくための、大切な配慮を尽くしてきた、そのことを無言のうちに伝えてきたように感じます。

 



 道沿いの杉の大木。その背面にきちんとした溝が掘られているのですが、それだけでは足りないと判断したのか、手前側にも溝を掘って、根回りの大地の呼吸を促そうとした配慮の跡がみられるのです。



 手仕事の魂を感じる溝の造作は、愛情を絶やさぬ観察の賜物なのでしょう。
 形式や形にとらわれず、木々との対話によってその時すべきことをするという、本来当たり前の素晴らしい姿勢、そんな先人が連綿と保ち続けてきた自然との向き合い方によって、これまで1000年以上もの悠久の時を超えて、この地の自然環境を良好に保ってきたのでしょう。




 そして、外宮の杜の絞り水は本殿前の御池にあつまり、浸み込み、流れていきます。
しかしながら、今はその水は濁り、滞り、いのちの気配を失いつつあります。
 伊勢神宮外宮の杜の要の地、つい近年までの、ここは森の瞳のような透明な泉だったことでしょう。そうでなければこれほどの森が今に残っているはずもないのです。

 地下水の汚染はその土地の環境の指標であり、そして淀みは自然環境の劣化をの兆しの警鐘となります。
 水は健康な大地に潜りこみ、そしてまた湧きあがりつつ、絶えず動いていれば淀むことはありません。土中や水中に送られる新鮮な空気が様々な微生物や菌類の活動を促し、そして数えきれないほどの生き物たちが浄化してくれるのです。
 庭園の池泉においても、お城の堀においても、今はいつも淀んでいる光景がほとんど当たり前のようにになってしまいました。
 これは人が少しずつ、あるべき道を踏み違えてきたことを自然界が明示しているのですが、こうした変化に気付く人も少ないのが現実のようです。
 時代が時代ですので仕方ないことですが、だからこそ、多くの人に、我々の生存の基盤が限界を超えて息詰まり、そしてそのことすらほとんど顧みられることもないようです。



 宮域参道の脇の白濁の汚染水。セメントのアクが、大地に吸い込まれて浄化されることなく、淀んでいます。
 杜の縁だというのに、浸透性は悪く、大地の泥詰りによる土壌の硬化、劣化が進んでいることが分かります。
 
  現代土木の世界では、こうした些細な変化を、「たかが泥水程度」と一顧もせずに見過ごされてしまいがちですが、この、水脈上重要な場所での濁り水が、徐々に周辺広範囲の大地の呼吸を詰まらせていき、そして木々や生き物たちが健康に息づける元環境を著しく劣化させてしまうのです。




 参道沿いの水路、これも、石の敷き方、水の濁り方から、ここの遷宮において新たに行われた工事であることがすぐに分かります。 
 工事現場の汚水のような白濁の水が大地を行き来して浄化されることなく、この日本の根本霊場とも言うべき伊勢神宮の環境を巡っているのです。
 参道と水路、遠目では同じように作られたように見えても、その構造も姿勢もまったくかつての伊勢神宮が誇るものとは違っているのです。
 
 道の踏み固めによる悪影響を緩和し、さらには周辺環境に影響を及ばさないようにその両脇に設けられた水路は、この土地の環境の大切な呼吸孔であって、参拝する大勢の人の踏圧が大地の呼吸を妨げることのないよう、そんな大切な目的を持って設けられました。
 それが今、形ばかりの浸透しない水路を浸透せずに流れる水は大地によって浄化されず、この環境がすでに浄化能力を失ってしまったことを現わします。



そして、細かな粒子を含んだ泥水は浸透せずに集水され、そして無機質なパイプを通してそのまま、排水され、川や池を汚していきます。
 ここでながれるセメントのアクなどを含んだ泥水は、流れ込む先の川底においても泥詰りを起こし、ますます吸い込まなくなるのです。その結果、川底は嫌気化し、浄化作用を失い、そして洪水時にはその水位調整機能おも大きく損ない、人にとっても危険で不健全で住みにくい地域へと知らず知らずのうちに変貌させていきます。

 本来の伊勢神宮は、自然環境を傷めるそんな文明の在り方に対して永遠の警鐘を鳴らすべく、気づきの機会としての式年遷宮や年間のたくさんの行事が欠かすことなく執り行われてきたのですが、そうしたことが今、形ばかりのものになってしまっていることに気付かされます。




 宮域林の地滑り。道の締固めと水路の不透水化の影響で、斜面にいたるまで土壌構造が劣化し浸透しなくなった大地は、常に表層が滑り、土壌深部が通気不良に陥り、木々も下草も衰退してしまいます。



 参道沿いだけでなく、人間活動の影響を受けやすい周辺の森の中の谷筋にもこうして、土中の通気浸透を促す水の道が掘り下げられ、そして石積みによってその地形を守っています。
 こうしたことから、参道沿いの水路が本来、単なる人のための道の排水が目的なのではなく、土中の水と空気が滞ることによって草木が、そして土中の生き物たちが健全に息づく元環境を守り続けるという明確な目的が垣間見えてきます。

 人の営みが永続するために、周辺自然環境、一木一草にいたるまで息づかせてゆくことが不可欠であるという、人類普遍の戒めを伝えてきた伊勢神宮、ここが日本第一の根本社寺であり続けた理由はきっとそうした部分にあるのでしょう。



 外宮境内、石段を上ってひときわ高い小山の上に建つ風宮。
 風の神様を祀り、五風十雨の順調な巡りを祈るこの別宮の周辺の木々も痛んで精気を失い、まるで公園に建つ宮モデルのようで人に畏敬の念を感じさせる荘厳さも、今はありません。
 
 こうして見ると、今は単にお宮の形ばかりを20年ごとに建て替えるばかりで、その本来の大切な意味が全く失われてしまっていることが感じられてしまうのです。



 風宮の遷宮に伴う工事用資材搬入路とされた谷筋はもはや呼吸を失い、地表は荒れ、そして周辺の木々も痛み、森の精気を奪ってゆきます。
 表面上、形ばかり元通りの谷に戻しても、失われた大地の呼吸環境は戻りません。人が人の都合で荒らした以上、人の手を持ってきちんと優しく、大地に心を向け、手を伸ばすことが必要で、かつての伊勢神宮では確かにその心、配慮があったのですが、悲しいことに今はそれが薄れていることが今回の踏査で痛いほど感じられました。。
 




 そしてここは社務所周辺の傷んだ高木。数百年と息づいてきた木々も、元環境の劣化によってこうして数年を経ずして病み、痛んでゆくのです。
 それに対して、単に傷んだ一本一本の木を治療するという短絡的な発想ではなく、どうして木々がこうして急速に傷んでしまったのか、我々の所作に何か過ちがなかっただろうか、そう考えることこそが大切なことのように感じます。



 近年、伊勢神宮境内に新たに建てられた社務所は、伊勢神宮が本来、境内の全ての建築において掘っ立て構造を硬く維持し伝えてきたあり方に対する敬意も畏れもなく、通常のコンクリート基礎構造で、伊勢神宮境内に建てるすべての建物とは、何の脈絡もない建築。そして背面の木々、ご神木たちは痛み、見るも無残な状態となり、劣化はますます進み続けています。
 
 「人の営みと息づく周辺自然環境の調和と共生」 そんな、神宮が伝えてきた大切ことが全くおろそかにされて顧みない、そのことがこうした、今の人間中心で自然環境は付属物であるかのような、今の伊勢神宮のちぐはぐな営みに現れます。



 なかでも、急速な劣化が最もひどいのは、今回の遷宮に伴い、神宮の森の環境を1000年以上の長きにわたってその周辺の森と共に守り続けてきた勾玉池周辺に、その環境を踏みにじるかのように建てられた鉄筋コンクリートの遷宮記念館とその周辺です。



豊かな杜の麓の豊富な水脈を無視して大地に多大な負荷をかけて整備された記念館周辺の木々は数年を経ずして痛み、枝枯れし、見るも無残な殺風景な光景が広がります。



 神宮の歴史に対して何のゆかりもない現代の加工石材量産品を用いた園路、周辺の木々や土、環境に対する何の配慮もなく、ただ建築者や施主の自己満足によって構成された園路の脇の土は乾き、硬化し、ここが本来しっとりとした環境を必死に守り伝えてきた伊勢神宮境内でやることとはにわかに信じられない思いに、悲しみを通り越して絶望感すら覚えます。



 木々の呼吸を無視し、見た目ばかりの浅はかなデザイン、負の遺産ばかりが増え続ける現代、そのことを、急速に痛み枯死してゆく木々が身を持って語り続けているように感じます。

 今の伊勢神宮は、かつての偉大な智慧と共に、現代文明の在り方をも、今の私たちに強烈に語りかけているようです。



 今、方向転換しなければ、我々の未来はない、そんなことを伊勢神宮の木々達や、急速に衰えてゆく自然環境が必死に語っている、今回の神宮踏査はそんなことを強く感じさせられました。

 近い未来、伊勢神宮境内の神々しい精気は消えてしまうかもしれません。その時はもう、この環境は人に蘇生の力を送り込む力を失い、そしてこの神宮に訪れる人も知らず知らず減ってゆくことでしょう。そして、また我々は大切な価値を失っていきます。それはそのまま、今の国土全体の反映でもあるということを痛く感じます。

 最後に、いまから100年以上も前に足尾鉱毒事件と闘い続けた田中正造の言葉を下記に紹介して、正月の伊勢神宮踏査報告を締めくくりたいと思います。

「世界人類の多くは、今や機械文明というものに噛み殺される。
 真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず 村を破らず、、、・」

 田中正造没後、今年で103年目を迎えました。






 

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
南紀の旅その2 中世の庭園と吉野の桜に想う  平成28年1月26日
  つい先日に新年を迎えたかと思ったら、もうすでに大寒も過ぎ、早春の訪れも足早に、まるで後ろから追いかけてくるようです。
 今年もすでにひと月近く、仕事を進めながらも昨年に増して様々に、今この場で自分がすべきことを、こつこつと進めております。
 時間の使い方、優先順位はこれからますますタイトになってゆくことと思いますが、思うことを先延ばしにできるような時代でもなく、なんとか、少しでもよい未来、よい生き物環境を伝えていけるよう、できることは何でもしていかねばならない、そう心に決めて歩んでおります。

 さて、お待たせしました。懸案だった南紀紀行の報告、第2弾です。



 ここは伊勢の国 美杉町に残る中世の名園、北畠氏館跡庭園。伊勢国随一の名園として知られる山中のこの地は今もなお遠く、今回ようやく宿願だったこの庭園に立ち寄ることができました。

 北畠氏館跡庭園、それは建武の新政の夢かなわずに潰えた後醍醐天皇の重臣、北畠氏の館跡、室町時代末期に造営された、室町末期の代表的な名園です。



 庭園の背後の山腹斜面は、かつて北畠氏の山城があった霧山山頂へと続きます。そしてその尾根道の中腹に、かつての北畠氏の居城がありました。そんな居城、山城の麓にこの庭園は造営されております。

 一般的にこの庭園は、1530年頃、当時の伊勢国司 細川高国によって作庭されたというのが通例ですが、実際にこの地に池泉が造営されたのはおそらく、それよりもはるか以前、それこそ北畠氏がここに居城を構えたころからの生活排水濾過施設だったことが、遺構の配置から容易に理解できます。
 
 かつての暮らしにおいて、特に200年以上もの間、南伊勢一国を支配した大名の居城において、相当なる人数がこの険しい山中に滞在していたわけで、そこでは大量の下水や生活排水を円滑に処理する必要が生じます。
 今のように、浄化槽や下水処理施設を通して海や川に流すという、安易な方法ではなく、かつてはきちんと、大地に還元して生き物環境の中に還し循環させるため、居宅周辺に巡らせた素掘りの溝を通して浸透させ、そして山中の湧水と共に麓山際の池泉に集め、そして澄んだ水となって敷地外の河川へと流れていきます。
 土中に浸み込んだ生活排水は様々な生き物に栄養を与え、生き物環境を豊かに育み、そして様々な生物の作用によって浄化されて清流となります。
 特に、常に清冽な水と空気が地下水となって動き続ける山畔においては、大地の浄化力は高く、こうした場所に生活上必要な池泉を設けることが、通例だったと言えるでしょう。
  
 健全な山畔の谷部分を掘れば、その下の水脈に到達して水が湧きだします。清冽な地下水は、土中に空気をも流し込み、土中生物や草木の根もそこで活発に活動し、豊かな生き物環境を作っていきます。
 山畔を掘って地下水を湧き出させることで、土中に流れる空気の量も流動水量も増し、それがさらにその土地の生き物環境を活性化し、いのちを養う力を増していき、木々も生気に満ちて大木となり、その霊気で人の心身にも健康と活力を与えてくれる、そんな住環境を作り上げる役割に大きく貢献してきたのが、こうした池泉だったのです。



 池泉際の木々は大木となってなお、精気と霊気をもってこの地を訪れる者の心身を浄化し続けます。
 大木の根は、池の水位よりもはるかに低い位置にまで太い根を張っていることは巨木の太さ大きさから簡単に分かります。
 清冽かつ円滑に土中と地上を行き来しながら流れる水はたくさんの酸素を含み、そんな環境では木々の根を枯らすことはないのです。健全な水脈が健全ないのちの環境を生み出し、育み続けるのです。
 ところが、この水が何らかの理由で滞ってしまえば、たちどころに根を枯らし始め、そして枯死していきます。大地を流れる水は停滞することで、豊かな木々を育み続けることはできなくなってしまうのです。
 つまり、自然界の流動水と停滞水は、同じ水であっても全く別物と考えなければなりません。

 その自然環境を息づかせて保ち、そして人にとっても五感の全てで心地よく感じる健康的な環境を保つためには、大地の水と空気の動きがとても大切であって、かつての庭園が池泉を中心に作られたのは、そこが木々が最も健康に生き生きと霊性を放って、空気感がよく、人はそこから蘇生のエネルギーをもらえる、そんな霊気宿るいのちの環境が自然と成立しやすい場所だったからという点が、池泉庭園の起点として本質的に重要と考えます。

 ここは、北畠居城時代以降、いわば浄水池周辺がもっとも畏敬の念を感じさせられる安らぎの空間として育ってきたからこそ、ここに国司の居宅書院が構えられ、そして庭園として手を加えられた、というのが正確な流れだと、現地を訪れて確信します。



 複雑に刻まれた池泉脇の微高地(庭園的には築山というが、その表現はここでは避けてこう呼びます)の巨木群は樹齢500年とも言われます。

 微高地の巨木、その脇に、こうして山からの地下水が滾々と湧きあがる池泉を掘り込むことで、巨木の根周りに山からの水脈と連動して活発に空気が送り込まれます。
 そんな、木々が力強く息づくことのできる豊かな環境が絶妙に作られており、その結果、数百年の巨木がいのちを繋ぐ、そんな豊かな環境がここに保たれてきたのです。
 木々の様相は、その土地の健全性の指標となります。智慧深き先人にとって、こうした庭つくりは未来永劫数百年の計であり、それを造営するということは、その地の健全性の鍵を握る水脈環境の要となる地を見定め、そして精気の宿る健康な地を将来にわたって保つような配慮がなされてきた、その顕著な名残がこの北畠氏館跡庭園でよく分かるのです。

 庭園研究や鑑賞において、その造形や人文歴史的背景ばかりを論じるのではなく、自然環境の中での役割あるいはそこでの豊かな暮らしを営む上での機能的役割という、庭園の元の意味を知ることこそが、これからの時代、庭園の本質を知り、そして未来に役立つものへと昇華させてゆくうえで、とても重要な鍵となることでしょう。



 庭園遺構の上、居城跡の名残が残る山道を小一時間も上ると、かつての山城のあった霧山山頂部にたどり着きます。
 こうした場所は、江戸時代以降には特に桜の献木が多かったため、春には山に桜が点々と淡く開花する光景が、多くの人の心の中に刻まれています。
 この地も、山城跡周辺には今も桜の古木が見られます。

 この山城周辺を今、サクラの名所にすべく、近年とみに整備やメンテナンスが継続的になされている様子がうかがえます。
 これも近年、あちこちの観光地周辺を中心に非常に増えてきたことなのですが、こうした整備によって、その土地の自然環境が壊滅的にまでダメージを与えて破壊してしまう、そんな事例をよく見かけるようになりました。
 この、霧山城周辺も、誤った環境整備によって、取り返しのつかないほどに傷んでしまっていたのです。



 霧山城山頂付近、衰弱した桜の樹皮は新陳代謝できずに老化し、こうして苔がびっしりと付着してきます。



 枯死し、そして朽ちかけたサクラ。山頂付近の、重点的に整備された箇所はすべて、残存の木々は衰弱し、そして次々に枯れてしまっていたのです。

 ここは本来、マツ杉林のなかに松や桜の古木が点在していたのですが、これを桜の観光名所つくりのためと称して、サクラや松以外の木をすべて伐り払ってしまったのです。



 こんな傾斜地で特定の樹種だけ残して伐り払ってしまえば、地表は雨に打たれて泥水となって流亡します。そして泥水は、地表の微細な穴を塞いでしまい、水は大地に浸透しにくくなって硬化します。硬化して呼吸しなくなった土壌の地表は、落ち葉を捕捉する木々の細根が消えて、落ち葉が固定されずに風で舞い、さらに地表は露出しやすくなります。
 土が硬く締まって水が浸透しにくくなった土壌は、晴天が続けば乾燥し、雨が続けば常に過湿状態が解消されず、乾燥と過湿を交互に繰り返す中で根は徐々に後退していきます。特に、サクラのような表層に根を張る樹種は、土壌劣化の影響を即座に受けやすく、古木であればなおさら早期に衰弱枯死していきます。



 根元の表土は乾燥し、硬化し、まるで都会の踏みしめられた公園の土のようです。これが、一年中、人があまり訪れることのない、南紀の山の上でのことなのです。

 山中で一度こんな状態にしてしまうと、土砂崩壊などによってその地形が変わらない限り、ここはいつまでの健全に草木が育たない、劣悪で危険な状態が続いてしまうのです。



 桜ばかりでなく、意図的に残されたアカマツもすべて痛み、次々に枯死しています。

今後、草刈りや除伐など、この山に人が関与し続ける限り、今のままでは何をやろうと残存木の枯死と環境の劣化は止まることはないでしょう。
 さくらの名所にしようと、無意味でマイナスの影響をもたらしてしまうばかりの作業に費やした結果が、サクラどころかこの地の環境全てを破壊してしまったのです。
 環境全体を見ずに、不要に感じるものを排除する、間違った管理の在り方、間違った知識によって、自然環境はこうして数年で取り返しのつかないまでに劣化してしまうということを、きちんと知らしめていかねばならないと感じます。

 ここはもう、かつての桜と松の息づく歴史の深みを感じる山城遺構はありません。あるのは、荒廃しきって殺伐とした不快な環境でしかありません。

 人は本当に傲慢です。環境をよくしたいと、よかれと思ってやっても、大抵は強引で、人間勝手で、生き物たちへの配慮もなく、土地を都合よく変えようとします。その結果、大地は呼吸を削がれて苦しみ、著しく劣化し息絶えてしまう、それはそのまま、私たちの現在、そして未来永劫の大切な生存基盤を失っていることに気付く必要があります。
 苦しみ息絶えてゆく山奥の木々がそんなことを語りかけてきます。

 こんな例は、今はどこにでも見られます。業者や行政によるものばかりでなく、里山保全と称して市民によって行われる活動も、何をすべきかということの正しい視点を持って行われない限り、そのことが環境の劣化を助長してしていることが、実はよくあるのです。

 13世紀というはるか昔から近年まで、いのちの息づく豊かな環境を守り育ててきた 北畠氏館跡庭園というよい見本がそこにありながら、そこから本質的なことを何も学ぶことができない現代の営み、学会、社会、人。
 今こそ、私たち日本人が本来持ち合わせていた素晴らしい智慧、大地を息づかせながら共存してゆくという、大切な視点とノウハウを、きちんと掘り起こしていかねばならないと感じます。



 そしてここは有名な吉野千本桜です。吉野に通い始めて10年近くになります。以前からその傷み具合は気になっておりましたが、その後も年々木々の衰弱は増していき、特にここ数年、急速に拍車がかかっているようです。
 
 世界遺産となって注目が集まり、千本桜を守ろうとする、その作業事態が環境に負荷をかけて悪化させていることがここでもうかがえます。



 さくら以外の樹木ばかりでなく、下草にいたるまで刈り払われて地表は目詰まりをきたし、さらには農薬散布など、今おこなわれるあらゆる処置が的外れで、この山の環境にとってマイナスの要素しかもたらさない、その結果、やればやるほど環境は悪化してしまう、そんな悪循環が今も続けられているのです。



 世界遺産、大峰奥駆道へと続く道沿い。奥千本と呼ばれる参詣道沿いで今、奥千本桜再生運動と称して、杉林がいたるところで広範囲に、伐採除去され、そしてサクラが植えられています。



 観光のため、今ある木々が守りってきた環境をすべてをはぎ取って、そして桜のみの山にしようと、こんなことが今なされている。
 そして、山の際に残された既存の桜の木も、この環境の激変と土壌環境の劣化にさらされてあっという間に衰弱、枯死していきます。



伐採されずに残る杉林の縁の桜の古木はかろうじていのちを繋いでいます。これも、杉林が作り出す、温度湿度風の当たり具合などの地上部の条件や、森の下で守られる地中の条件とによって、舗装道路際の悪条件に在りながらもなんとかサクラがここでいのちを繋いでいるのであって、サクラだけにしてしまえば、これもおそらく1年以内に枝枯れをはじめ、数年後、あるいは長くとも十数年以内には枯死してしまうことでしょう。



 暗く閉ざされた下草も乏しい杉林の斜面を大規模に伐り払えば、当然表土は流亡し、土壌の構造は破壊されて浸透機能を失います。表面を土壌が流亡することで、その大地の生物環境は劇的に劣化することは、先に説明しました通りです。



 そして、サクラ植樹地の隣接する木々も痛み、急速に枯死していきます。



 数年前まで、参詣道へと続く道の両脇も、桜を残して伐り払われ、新たに桜の苗木ばかりが植えられます。蘇生の道、自然から学ぶ、山岳修験道の聖地において、人間によって暴力的に痛めつけられ、致命的なまでに弱体した大地はもはや、人の心身に蘇生の力を与えてくれることはありません。

かつてと違い、道路沿いはコンクリート擁壁と舗装道路によって土中の水と空気が停滞しやすい今の環境において、過去の環境の下で大木となった木を伐ってしまえば、今の環境の下では再びかつてのように健康な大木が育つことはないのです。



 残された桜も、共に生きてきた周囲の杉が一斉に切られてしまうと乾燥し、途端に衰弱していきます。地表の荒廃による土壌環境の悪化によって根も枯損が進み、太い枝が短期間に枯れていきます。それでもこの木は、新たな環境で一生懸命生きようと、苦しげにたくさんの小枝を出してもがきます。やがてこの木も、本来の寿命を待たずに枯死してゆくことでしょう。
 この様相を見て、誰がよいと思えるものでしょう。なぜ、こんなことが繰り返されるのか。理解に苦しみます。

 吉野の桜運動、もちろんみんな、良かれと思ってやっていることでしょうが、これが根本的に間違った方法であることは、こうした事例の様々な地域の結果を見ても明らかな上、環境の変化を丁寧に観察すれば、その間違いは誰にも一目でわかることなのです。

 伐採やサクラの植樹には、日ごろ木々を扱っているはずの造園業者や林業関係者、その他桜の専門家を称する人たちも多く参加していることと思いますが、それなのに、こんな間違ったことが改められず、結果として、それまで長い歴史とそれを守り育ててきた先人の営みが育んできた、大切な環境を根本から壊してしまっているのです。
 それほど、人は自然をきちんと見つめて教えを請うことができないまでになってしまったと、事態の深刻さに改めて身震いするのです。



 ただ伐って育てたい他の木を植えれば、思い通りの環境が育つというものでは決してないことを知っていただきたい。
 まして、自然を畏れ敬いながら、人間として活かされてゆくうえでの大切な智慧と命を授かってきた、そんな素晴らしいかつての日本人の人生観、そして山岳修験霊場の在り様を伝えるべく世界遺産となった吉野参詣道において、今ある森を一斉に排除して暴力的に一新し、なおかつここまで傷んでいるというのに、そんな自然の叫び声にも耳を傾けられない、本当に我々日本人は、自然から遠ざかってしまったことを、この光景に痛感させれられます。




 日本第一の山岳修験道場、吉野山金峯山寺。今年の正月三が日には数年ぶりに、朝の勤行に参加しました。
 この金峯山寺には、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩と3体の化身である蔵王権現が本尊として祀られています。
 それぞれが、過去、現在、未来を現わしており、我々人類は現代だけでなく、過去、未来を繋げて考え、生きていかねばならないことを今に発信し続けているように感じます。

 世界遺産、あちこちを回って思うことは、世界遺産に指定されて、よくなった場所はなく、猛未来に伝えるべき大切なものを形骸化させつつある虚しさを感じます。
 これもまた、「過去に学び未来を想い、今を生きる」という、人類として大切な在り様を社会が見失ってしまった結果なのでしょう。

 さて、悲観してばかりもおれません。こんな日本、こんな時代において、すべきこと、与えられた使命を果たしていこうと、蔵王権現様に誓います。


 

 


投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
南紀の旅 今昔考その1 紀伊の参詣道と周辺  平成28年1月10日



 ここは熊野古道中辺道、野中の一方杉と呼ばれる巨杉群。

 元旦早々から断続的に紀伊の霊場とその周辺を踏査し続けて最終日の1月8日、南紀の気候風土が生みだした知の巨人、南方熊楠が全霊を投じて守った、この森にたどり着きました。

 南方熊楠は粘菌学、生物学、民俗学、博物学研究の日本の草分けとして知られますが、本来、彼の人物、思想、見識は、そういった分類された学問領域の範囲に収まるものではないのでしょう。


 
 南方熊楠の生きた時代には、44本あったというこの地の巨杉も、今はこの8本のみとなりながらも、今も深い霊性を持って語りかけてくるようです。
 元旦からの一週間余りの間、南紀を巡る中で、この地域一帯の大規模な環境劣化と壊滅的なまでの破壊を見て、悲嘆に暮れていた我が心に浸みわたるものあまりに多く、この神域に入り、木々を見上げて涙がこみ上げていつまでも止まらなくなるのです。

 今、この旅を振り返る時、あの時の涙は一体何の涙だろうかと思うにつけて、不思議に澄んだ感覚に包まれます。
 豊かな南紀の自然の著しい破壊を一週間も追い続けて荒みかけた心を、この木々は間違いなく癒してくれたのです。そしてその癒しは、とても静かで、悲しげで、そして大きく温かく、人間としての贖罪をも受け止めてくれる、そんな、いのちのぬくもりとも言うべきでしょうか。

 とにかく、そんな不思議な感覚を表現するには、僕の拙い言葉でははるかに足りないのです。

 そして、この森の霊気を愛し、自らの研究人生も私財も、そして家族の暮らしをも犠牲にし、御一時は投獄されてまで、熊野の森を守ろうとした南方熊楠への感謝の想いもまた、この木々たちから確かに伝わります。いえ、熊楠自身の魂がもうすでにこの木々と一体となったのかもしれません。
 この森の巨杉群も、神社合祀の荒波の中で伐採されるところを、合祀に強く反対する熊楠の並々ならぬ熱意によってかろうじて伐られずに守られたのでした。

 南方熊楠が多大なエネルギーを投じて反対した、神社合祀(明治末期から始まった、いわば神社の統廃合、貴重な森と史跡を数多く有していた和歌山三重では、実に8割以上の神社とその鎮守の森がこの時期に消滅した)、熊楠が危惧したのは、合祀によって多くの神社がなくなる結果、地域を黙々と守り続けてきた古来からの鎮守の森が伐採され尽くすことへの危機意識だったのです。
 伐採によって生態系のバランスが崩れ、それが植物の生育のみならず、地域環境の劣化を招き、人の暮らしや人心にも取り返すことのできない影響を及ぼし、様々な問題が派生してゆく、そのことに対して熊楠は座視することはできなかったのでした。



 粘菌研究を通して熊楠は、草木菌類等、生きとし生けるものたちの密接なつながりに気付き感動し、「エコロジー」という思想、あるいは学問分野を日本で初めて、実践を持って切り開いていったと言えるでしょう。

 南方熊楠はこの老樹保存を訴える書簡の中で、図を付けて下記のように記述しています。

 「図の如く、老樹生えたる上の小雑木(*下草灌木の類)など、少しにても伐り候はば、五年を経ずして老杉が葉の色変わり出るものに候。」  (明治44年 野中瀬弘男宛書簡)

 つまり、こういうことです。

 「単にこの老樹だけ残せばよいというものではない。この木々はこの森の一木一草含むすべての生き物と共に、相互密接に関係し合いながら息づいている。だから、例えばこの木の根元に生えたる小さな雑木下草をわずかでも切り払ってしまえば、あっという間に精気をなくし、5年もたたずに葉の色が黄ばんでゆくものが必ず出てくるであろう。」

 この時代において、自然界の営みを透徹した驚きの見識というべきでしょう。

 人は、木々や自然と日頃接しているから、あるいは長年木々や植物を相手に仕事してきたからと言って、それだけで自然や木々のことを知っているということでは決してないのです。
 日々の精進の中で本当の智慧を獲得していけるかいけないか、その境目とは、心の在り様に依るのでしょう。
 純粋に心開いて大地・自然環境と寄り添い、愛し、感じ、包まれ、感動し、畏敬し、そして自分の生き方や精神が変えられてしまうほどまで思い続けて初めて、大地の息吹との一体感が生じ、そこに様々な智慧が、心の奥から泉の如く滾々と湧きおこるものなのでしょう。

 南方熊楠という智慧の巨人は、私にとってどれほど尊敬してもしつくせない、そんな人物だったのです。



 今、樹齢400年以上のこの一方杉はわずかに8本を残すのみとなりました。
 それはまさに、南方熊楠が予言したとおり、この場所、そして貴重とされたこの木々だけを、周囲のいきもの環境と切り離して「丁重に」保存しようとする、環境全体の繋がりをおろそかにしてきた近年の保存の在り方に対して、それが永遠の過ちであるということが、ここから発信され続けているのです。

 過ちは、その理由とプロセスを明確にして、社会において正していかないといけません。
 1200年以上も続いてきた、自然環境と共に息づいてきたこの地の暮らし方や祈りの智慧を、その本質の部分から次世代に繋いでゆくことが、今を生きるものの大切な務めであり、責任であると感じます。そしてそれは、未来永劫、人が生きてゆくためのいのちの基盤であり魂の基盤であるのです。



 温暖で雨量も多く、地層断層にも恵まれた南紀は、山また山と続く古来からの霊場で、吉野から熊野にいたる大峰山中には今なお、樹齢数百年、数千年という巨木が辛うじて残るところがあります。
 しかしながら、私の感じるところ、この継桜王子の巨杉群ほど、衰えたとはいえ、かろうじて霊気を供えているところはほとんどありません。
 それはすなわち、この山域全体の自然環境の著しい衰退劣化を現わしていると言えるでしょう。
 かつてこの山域は蘇生の地として日本あけぼのの時代から、都からそして遠方から、心を洗い力をもらいに修行者が絶えない日本第一の山岳修験霊場だった、その地が今、かつての力を急速に失っていることを今回の旅で知りました。

 今回訪れた南紀のこと、感じたこと、あたらな発見、ブログをいつも読んでくださる皆様にお伝えしたいこと、お話ししたいことは山ほどあります。すべてをここで著わすことは叶いませんが、2回に分けて少し、旅の報告をさせていただきたいと思います。



 ここは熊野古道中辺路 途中。幾重にも重なる山間の道は、周囲の自然環境を大切に配慮しながら営まれてきた暮らしが今もなお垣間見られます。



 山間地に刻まれたかつての名残の地形は美しく、この地の永遠の風景の中に違和感なく溶け込みます。
 山間部での暮らしを成り立たせるため、先人によって傾斜地に無理なく土地が刻まれています。
 無理に土地を刻めば大地を円滑に潤す水と空気の流れを妨げてしまい、土地はまたたくまに生産力を減じ、そして崩壊する、かといって土地に対して何の造作もしなければ、ここでの豊かな自給的暮らしは細るばかりで成り立たない、その狭間で人は大地と対話し、自然環境と折り合いをつけ、数百年の時を超えて風雨に持ちこたえうる、そんな土地の造成を成り立たせてきたのでしょう。
 
 永遠の美しさは、智慧を持って土地を刻んできた、こうしたかつての営みの名残に見慣れます。これこそが無意識のうちにも、人の大切な愛郷心を育んできたことでしょう。
 こうした場所に静かにたたずみ、心癒されぬ人などいるものだろうか、いるとすればそれは、騒がしい雑念の中で、心の奥底からの声に耳を澄ませるという、人の安らぎの本質を忘れてしまっただけなのだろうと思うのです。



 土地を刻み、出てきた石を積んで田畑を広げる。山間地に平坦部分を作れば作るほど、土中の空気が抜けやすい段丘が生み出されます。直角に近く切り立った石積みの隙間から空気が抜けて土壌環境が育ってゆくにつれて、人にとっても、またその土地の生態系にとっても、生産性の高い土地が育ってゆくのです。

 ここは日本有数の降雨量を誇る、昔からの台風銀座というべき南紀の山間部。そこで土地を保ち豊かな暮らしを成立させるためには、それ相応の造作の工夫が必要になります。



 安定感のある石垣にはつるや下草の根がはびこり、とても安定した風景に安心感すら感じさせられます。
 石の隙間から土地は呼吸し、そしてその地のあらゆるいのちにとって無理のない光景を感じさせてくれることこそが、この安心感をもたらしてくれるように感じます。




 集落に大切に守られてきた防風の木々、それ程古い植樹ではありませんが、木々は先端まで精気にあふれて健全な状態が保たれている、今や、そんな健全に近い樹林を見ることの方が少なくなりましたが、こんな場所に立ち会うことで力を分け与えてもらえるせいか、体は見違えるほど軽くなります。



 参詣道の古い石畳は、ごつごつした見た目とは裏腹に、歩きやすく、先人による絶妙な配慮が感じられます。
 造園の仕事で日常的に石畳を配する者として、こうした古道の歩きやすさと安定感には脱帽し、心底から畏れ入ってしまいます。



 決して平たんに据えられた石畳ではなく、むしろ荒々しく、ごつごつとした見た目でありながら、そこを歩けば足の底から五感が刺激されて頭は透き通り、細胞が活気づく、それが蘇生の道と言われるゆえんでもあり、またかつての人の、今とは比ぶべくもない精神性の高さが生み出した、人間の道たる何かを感じさせてくれます。

 こうした道、こうした人間の魂を高めるほどにいのちの宿る、そんな石畳を作ることがいかに、現代離れした高尚至極の業であるということは、先人にはるか及ばぬ不肖の作庭者である私にはよく分かります。



 これは古道途中の、最近整備された石畳道です。古道の雰囲気を損なわないように作ろうとした形跡は感じますが、これが実に歩きにくく、疲れるのです。そして見た目の安定感も当然感じられません。
 セメントで固定された石はクッションも効かずに足になじまず、そしてこの道の造作によって土が締まり、周囲の地表も不安定化して、木々下草の根が後退していることも分かります。
 似て非なるものとはこうしたことを言うのでしょう。
 心清き先人の素晴らしい業がすぐそばで見られるというのに、そこから何も学ぶことができないのも人の真実の一つなのかもしれません。

 学ぶということにプライドは要りません。学ぶ喜び、知らないことに満ち溢れる世界へのワクワク感、そしてそれを学んだ時に迷わず、正しい方向へと軌道修正する魂の姿勢こそが、人間に必要なことだと感じます。
 そんなことを分かっているようでも、その場に直面してそうできないのが人間の弱さというものです。自分自身そうした、弱く不明な人間であるということを忘れず、自然の真実に向かい合い、そしてなお、負けないことが大切なのかもしれないと、そんなことを考えます。



  そして古い石畳には樹木の根が入り込み、これがまた蹴上げとなって石畳を補強し、道を安定させます。ここもまた歩きやすく、木々がこの道を守ろうとしているかのようです。
 今ここでは、木々は人の通行を許容し、共存できている様子が、見た目にも、そしてこの場所の空気感や草木の表情からも分かります。
 しかしながら、これが何らかの原因で無理が生じ、木々にとってこの道の存在が好ましいものでなくなった時、、根は持ち上がり、とげとげしく人の通行を邪魔し始めるのです。
 そんな事例は無理につくられた登山道などでよく見受けられます。そうした場所は、雨が降ると瞬く間に泥水が流れてさらに環境を痛めてしまう、そんな場所が多いようです。



 安定した山道、それは、道に降り注ぐ雨水がきちんと大地に潜り込んで、山域全体の水脈の動きと一体化させてゆくことが、数百年と崩れることのない道つくりの絶対条件ではないかと思います。
 かつての安定した山道を巡るにつけて、水と空気の流れに対する絶妙な配慮に、いつも心が高ぶります。
傾斜地の石畳は決して傾斜角に対して平行には据えられておらず、むしろ階段のように一つ一つの石が蹴上げのように、ごつごつ座っています。それも、常に平らな面を出しているわけでもなく、それていて歩きやすいのです。

 まるで、安定した上流部の川底のようです。降り注いだ雨は多くは浸み込み、大雨の際に浸み込みきれない分は表層を流れながらも、一つ一つの石にぶつかって勢いが弱められ、大地を削ることなく等速で流れます。
 そして、山側、谷川にまた、川底のような表情をした横溝に表層水が集まるとともに、路面にしみ込んだ水もこの溝に側面から浸みだし、そしてまた地中に潜り込みます。



 石畳み両脇の溝は、木々の根と大小の石が絡み合い、大雨でも泥水が流亡することなく、ここから様々な空隙を通して土中にしみ込んでいきます。だから、安定した場所では地表が水に削られた跡はほとんど見られないのです。
 この状態こそ、この道が自然との一体化の中での安定した姿であり、これを自然は長年の風雨から守るように働くのです。それはすなわち、この道の存在が自然界の営みにプラスの形で寄与するのですから、自然はそれを永続的に守り取り込もうとするのです。水路に絡み合った太根と細根の存在が、そのプロセスの一端を明かします。

 自然と人との共同作業によって作られた道は二つとして同じ表情はなく、実に豊かで見ていても飽きることがありません。

 こうした、自然の力を借りて参詣道を未来永劫に保とうとした先人の智慧に、我々は今こそ学ばねばなりません。



 石畳で有名な熊野古道は、連続した道ではなく、断続的に残った道を近年整備して繋いでいるのですが、ここも新たに最近整備された道です。
 石は用いず、さりげなく山道の雰囲気を壊さぬように配慮されているのですが、しかしこれも本質的な部分で間違った整備と言えるでしょう。

 セメントや石を用いず、歩く人の脚にやさしいようにと、真砂土を締め固め、そして有機的な丸太で横断面、側面に表層水の道を配しており、一見、古道の機能性に学んだ施工のように見えますが、中身はまるで違うのです。

 こんな傾斜の山道で路面に砂地を用いれば流亡します。



 実際、路面にはすでに地表流によって削られ、真砂土が流亡し続けている様子がうかがえます。
 川でも、上流や滝などの水のエネルギーが高い個所では砂も土も流されて岩と礫ばかりとなる、そんな場所の路面が粒子の細かい土や砂では、なかなか安定しないのです。

 表層を水が流れる度、地表の微細な通気孔は泥詰りして硬化し、さらに浸透性を落としてしまい、流出する泥水は増えるという、厄介な悪循環が始まります。



 そして、雨の度に流れるその表層の泥水を逃がすため、溝を横断させて斜面谷側に誘導しています。溝の底は、泥が流れて表面に膜のような硬化土層が生じています。この道から雨の度にに流出する泥水の量はは相当なものであることが推測できます。そして厄介なことは、この道が自然の作用によっていずれリセットされるように崩壊するまで、泥水流亡の悪循環は収まらないということです。

 これによって周辺の山は徐々に荒れて、そしてやがて大地を支える力を失い、崩壊の原因にすらなるのです。

 かつての人為的な排水溝は、植物の力を借りて地面に浸み込みやすい状態を作って表層に泥水を走らせるようなことはしなかった、それをしてしまえば長年の道として保たれないということが分かりきっていたのでしょう。
 そこが今の、「道の表面を流れる水だけ消してしまえば後はどうでもよい」という、本質を見失った浅はかで、環境を傷めるばかりの現代の土木技術とはまるで異なるのです。

 もちろん、この世界遺産ともなった参詣道において、誰もこの貴重な環境を壊そうとしてやっているのではないのです。しかし、良かれと思ってやっていることが実はすべて、この地の環境に対してマイナスをもたらしているのです。
 その悪循環の根底にあるのは、水と空気の流れこそが環境を息づかせて安定させているという、大切な視点の欠如なのです。
 これからの時代、現代の技術が置き去りにしてしまった、そんな大切な視点を再び取り戻すことに力を注がねばなりません。



 中腹の山道は、基本的に等高線に沿って、尾根や谷を巻くように道が続きます。必然、谷筋を道は渡ります。写真左から谷のラインは伸びています。
 谷筋の土中には周囲の斜面から水脈が集まり、水と空気が大量に動く場所、人間で言えば大動脈と言えるでしょう。
 地形造作の際、最も崩れやすいのも谷筋であり、これを停滞させてしまえば瞬く間に流域上部にいたるまで、森の精気が失われる上、崩壊の起こりやすい状態を招きます。



かつての山道で谷筋に道を廻す際によくおこなわれていた方法ですが、井桁状に丸太を組みあげてそこに路面の踏圧を受け、谷部の地面が圧密されない配慮が施されます。そして井桁の間に石や礫を絡ませて、谷底の水の動きを妨げることなく、土中深部へ誘導されるように配慮されているのです。
 そして、水や空気が抜ける丸太組みはやがて周辺から草木の根が絡み合い、そして同時に丸太は徐々に土へと帰していき、谷筋はあたらに作られた道の地形で安定してゆくのです。
 安定してしまえば、表層に水が流れた形跡は全くなくなります、どんな豪雨にでも円滑にこの谷筋の水脈へと水が浸みこんでいることが分かります。
 本来の健康な状態の山中では、自律的にそうした状態が作られるもので、それが何らかの原因で錯乱が生じた時、本来の円滑な浸透機能を消失して、そして木々は痛み、、表層は荒れて土壌が流亡し、それが土砂崩れや水害へと繋がることもあるのです。



 そして、谷部分の道の山側は、元の地表の下がえぐられて、表土がオーバーハングした状態で安定しています。苔や下草の表情から、ここも表面流の形跡はありません。
 観光客も増えて道が踏み固められるに従い、上部も若干それまでに比べて空気の停滞が起こります。すると、下層から樹木根が後退して、切土面の下方が少し崩れます。こうした光景は道沿いによく見られますが、山はこの小規模な崩れによって新たな空気の通り道が確保され、そして安定していきます。
 だから、こんなオーバーハング状態が山道沿いでよく見られますが、落ち葉や下草に守られた笠によって、崩壊面に雨が当たらず、これ以上の崩壊が進行することなくやがて苔むして、新たな表土が形成されて根が張り、この道を自然は受け入れて守ろうとするのです。

 ほんの少し前までは、こうした土中の水に対する配慮が当たり前のようになされていたのです。
 これからの土木技術は、こうした自然を味方につけるあり方、その重要性を再び認識し、取り入れることこそが、安全でいのち息づく豊かな国土を再生し、未来の子供たちに繋いでゆくために必要不可欠なことと確信します。



 一方で、急斜面に車道を通し、谷部の巻道部分にもコンクリート土留めによって土中の水と空気の動きを滞らせてしまった場所はいつまでも安定せず、人工による表面的な緑化もまったく意味を成しません。



これを大きな力で抑え込もうと、山を治める「治山」と称して、砂防ダムが配され、これによって土中の水と空気だけでなく、谷筋を流れる清浄な風も滞り、、その周辺の木々は劣化し、小さな地すべりを繰り返して倒木します。



 その結果、ますます谷は不安定化して地形を保つことができず、表層にとどまることなく深層からの大規模崩壊を招くのです。崩壊は大小の水脈沿いに起こります。
この大規模崩壊のあと、次々にコンクリート砂防ダムがつくられますが、一向に安定することはありません。あたらな治山工事よって山は広範囲に荒れて支えきれず、そしてまた新たな崩壊が周辺で多発してゆくのです。



 写真左箇所のコンクリートのり面工事は、平成23年の紀伊半島大水害の際に崩落し、そしてそこが固められたものです。
 これによって土は本来の透水貯水機能を失って乾き、木々の根は衰退し、そしてまた隣の箇所が崩落します。ここも実は、2度目の崩落で、一度は法面保護工がなされたのにまた、同じ個所が崩落したのです。(右側土砂崩壊部分)
 自然の摂理を顧みずに大きな力で抑え込もうとする、今の土木・建設造作の先には命を養う力を失った殺伐たる国土しかないのです。



紀伊半島の参詣道が世界遺産に登録されて以来、この険しく、起伏に富む豊かな土地に次々に新たな車道が整備されていきました。新たな道はますます強引に、大規模に自然環境を破壊しながら無機質に。地形を無視してつくられます。
 この新たに整備された国道、正面の尾根を大規模に削って、そしてコンクリートで留める。これがかつての日本人の魂の故郷へ続く祈りのための参詣道としてあるべき姿なのでしょうか。



そして、尾根を削った膨大な土で大規模に谷を埋めて大型重機で締固め、そしてその表面に、コンクリート水路を配す。世界遺産に通じる山間の一本の道の通行性のために、周辺環境の大規模な破壊が正当化される、こんなことが許される日本とは、一体どんな国なのでしょう。

 世界遺産という、ただ一点を、しかも現在たった今だけの経済的な観光資源として利用して、そして周辺環境に配慮せずに平気で悪化させる、いつの間にこの国はそんなことが平気で行われるようになってしまったのでしょうか。
 そんな人間、自分もそんな人間という生き物の一人であるということが恥ずかしく、そして許せない想いに憤りを抑えることができなくなります。



 100m近くも谷が埋められて、もうこの谷は空気も流れない死の世界となります。
そしてまた、いずれはここが崩れるばかりでなく、上流流域全体の森が衰弱し、弱体化し、新たな土砂崩壊を多発させることでしょう。



 新設道路沿い、残土は無造作に山に放られ、周辺木々は倒れ、枯れていく、そんな光景が新設の国道沿いに当たり前のように広がります。
 これを誰が許せるというのでしょう。

 今、日本はおそらく、最悪の時を迎えていること、こうした工事やその後の環境劣化を目の当たりにして、震え上がる憤りが収まりません。

 仕事もたくさん詰まっていますが、こんな現状を放置できないのです。

見たくない、この場から逃げ出したい、旅の途中、何度そう思ったことでしょう。しかし、逃げてはいけない。木々や自然環境が助けを求めているのだから。これに気付いた一人として、きちんと戦っていかねばならない、そんな役割が新たにのしかかってきたことを実感させられた旅となりました。

 大地の苦しみ、木々の苦しみ、そんなことに気付かなければ、楽しく旅もできて幸せだっだかもしれないと、何度となくそんなことを考えました。最近の日本、今はどこに行っても、木々やいのちの苦しみばかりがのしかかり、つぶされそうになります。でも、これが人としての贖罪です。温かないのちと共に歩んで、そして苦しみを分かち合えればそれがせめてもの罪滅ぼしで、そのために今、できることを速力を上げて臨んでいこうと、そんな力も湧きおこります。

きっと、南方熊楠も、同じ気持ちで戦ったことでしょう。

 こんな光景ばかりを1週間以上も追いかけてきた後、熊楠によって守られた野中の一方杉を見たもので、あの時、初めて慰めが与えられたような安らぎを感じ、涙が止まらなくなったのでした。

 第2部は、もう少し明るさの見える報告をしたいと思います。年始早々にこの長文にお付き合いくださった方、心からお礼申し上げます。
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。





投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
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