311の祈り 平成24年3月13日
震災から1年、「100万人のキャンドルナイト」が日本中にともされたようです。ここは日比谷公園の311。
鎮魂の光を感じた数1千人の人の心に、新たな時代をつくるべく、一人ひとりの使命を分か地合います。
午後から、社員総出で参加しました。
福島県郡山での追悼式典から駆け付けた加藤登紀子さん。
CWニコルさんに坂龍一さん。たくさんの著名人が、追悼と脱原発のためにこの日、集まりました。
美しい命が繋がるこの世界を、私たちの代で汚してはいけない。
今、本当に原発を安全と考えている人など、たぶん日本にいない。なのに、「とりあえず今は原発を再稼働」とは、どういう事でしょう。
いつ、この国に住めなくなるか分からない、そんな基盤など、一刻も早くなくさねばならない。
なくなられた方々に心からの哀悼と、そして、この過ちを繰り返さないよう、決意を新たにしています。
阿蘇神社 門前町商店街の再生 平成24年3月9日
活気あふれる阿蘇神社門前の商店街。緑溢れ、木漏れ日の下を観光客が行き交います。
ここは阿蘇神社門前町商店街。今、この街を訪れる観光客は、年間20万人と推定されます。 つい10年前までは、ここは商店街のシャッターが軒並み閉まったままの、廃れた過疎の町だったとを、この写真から一体だれが想像できるでしょうか。
そうです。この街は日本のどこにでもある、地方の寂れた商店街だったのが、地元の人たちの努力によって再生されて、今は阿蘇観光の名所コースにまでなったのです。
この商店街を彩る木々は、つい数年前に、阿蘇に根付く孤高の人、グリーンライフコガの古閑さんの提案によって生まれました。
数年前、潤いのない、寂れた商店街に、古閑さんたちの先進的な提案と地道な説得によって、こつこつと大木が植えられていきました。
大木が植わると、街の景色が変わります。通る人も立ち止まって作業を見つめます。
大きな木を植える、古閑さんの信念によって、この街の景色は奇跡のように変わったのです。
「大きな木を植えないといけない、そういうと、落ち葉が大変とか雨樋が詰まるとか、いろいろと反対されたのですが、なんとかそれをクリアして、みんなを説得して、それでやっとこんなことができました。」
阿蘇特有のイントネーションで古閑さんはそう言います。その言葉から、ここに至るまでの古閑さんの信念の強さと苦労が偲ばれて、久々に体の芯からの感動が湧きおこります。
尊敬と感動以外のどんな感情もおこりません。
木々がなく、潤いのなかった廃れた街、それがこうして、家屋際のわずかなスペースのコンクリートをはがして植栽スペースが造られていきました。
商店街の家際のわずかなスペースのコンクリートをはがした後、そこに一本一本木が植えられていきました。植えている人が古閑さんです。
顔が映っていなくても、写真を見てすぐに、「あっ古閑さんだ!」と私には分かります。
そして、通りに面して家際のわずかなスペースを提供し合って植栽された木々が風景として繋がって、美しい街が新しく再生されたのです。
「木を植えると、これほど人が集まるのか。」今、この街は廃れた街を再生した成功例として、全国から行政関係者や街おこし関係者が視察に訪れると言います。
木や風景は何気ない存在です。しかし、それがあるからこそ、人が自然と集まる心地よい空間が生まれます。
こんな素晴らしい街が再生できたのも、古閑さんの先見性と熱意が大きな力となったのだなと、私には分かります。
今、私は古閑さんと一緒に、鹿児島県姶良市に緑あふれる分譲地計画を進めています。
こんな素晴らしい人と出会い、そして一緒に仕事できる幸せをどのように表現すべきか、言葉が見当たりません。
商店街、今は桜の時期には地元の人たちが花見のために通りにあふれ出します。こんな光景、10年前にだれが予想できたことでしょう。寂れていた10年前にはこの桜の木立すらなかったのですから。
奇跡の再生です。人の力のすごさを感じ、私もこんな仕事をしたいと、忘れかけていた情熱が久々に心の中で燃え始めました。
今。あの震災から間もなく1年がたとうとしています。日本の再生、被災された街の再生、しっかりとした思想を持って臨めば、心豊かでその町らしい形で、以前よりも発展していくことができる、そんな可能性を感じさせられた写真でした。
商店街の瀬上さん、どうもありがとうございました。
熊本 阿蘇山からの雑木 平成24年3月5日
阿蘇のグリーンライフコガさんの畑から、大量の雑木が今朝、大型トラックに満載されて当社の植木畑に到着しました。
2m~6mの雑木、その数実に600本。雨の中、泥んこになりながらも5人かがりでひたすら荷降ろしです。
コナラ、ヤマモミジ、アカシデ、アオハダ、コマユミなど、阿蘇の豊かな自然の中で育った愛おしい木々たちです。
これから当社の畑に植え付けて、数年ほど時間をかけて関東の気候風土に馴らしてから、一本一本私たちの作る雑木の庭へと嫁がせてゆくのです。
これはヤマモミジの苗です。苗といっても高さ2mから3m程あります。これから2年くらい、うちの畑で管理し、土地に馴らし、3,5mから4,5mくらいの大きさにしてから雑木の庭に使っていきます。
そしてこれは3mから3,5m程度のコナラです。
都会の住宅地における微気候改善のための庭造りの主木としては、コナラほど適する樹木はありません。
これらの苗は、やはり2年から3年かけて畑で飼いならし、大方5mから6mくらいの高さになってから庭に使っていきます。
樹木畑の土場は今日届いた木々でごった返しています。
縁があって千葉に来た阿蘇の木々たち。木々は黙って与えられた土地に適応し、そしてそこで命の限り生きようとします。大切に育てて、そして木々の命を大切に愛でてくれる人たちのもとに届けていきたいと思います。
よい雑木が手に入らなければ私の仕事はあり得ません。例年、落葉樹の移植の適期である冬の時期には、雑木を集めに駆け回ります。
今年もすでに数百本の雑木を入手してはいたのですが、今朝届いた大量の雑木を目の当たりにして、「これで今後数年間は戦える!」というのが率直な想いです。
はるか遠く、九州の地から届いた木々たち、私には人の暮らしを心豊かにしてくれる、魔法の杖のように感じました。
千葉県佐倉市の庭 井戸小屋の足元工事 平成24年3月3日
1月に完成した茅葺き屋根の井戸小屋。その足元の石工事に昨日から取りかかっています。
この家の庭にもともと石がたくさんあったから、その石を使って庭を再構築します。必要な土留めや伝いの機能を果たしながらも、石の景としての強弱をバランスよく整えて、見ごたえのある景色を作っていきます。立体感のある足元の景色が生まれてきました。
足元が引き締まってくることで、茅葺き屋根の風景がより一段と引き立ってきます。これが造園という仕事だと感じます。
何かをつくり、そしてそれを風景として調和させてゆくのが造園の仕事です。
お施主のAさんの主家玄関への伝いも施工中です。石を組み、そして木を植える、その繰り返しのたびに、一つずつ景色が生まれてきます。
広いだけでなく高低差のある敷地条件が、面白い造園の余地を造り出します。
1日作業するごとに景色が変わる、明日は何しようか、考えているとアドレナリンが体の中に充満してきます。
今週の一冊 平成24年3月2日
仕事漬けの日々、その隙間に本を読みます。読みたい本はたくさんあるのに、時間がありません。でも、時間がないからこそ、読みたい気持ちが募るのかもしれません。
今週読み始めた本です。
本の序章でこうありました。
「和辻哲郎は『風土』を著わした頃の日本住宅は、今日われわれが郷愁をこめている『民家』であった。そして、その民家は昔からあまり変わらない気候に代表される自然環境と、これに順応した人間活動との相互作用によって形成される風土に適応していた。その中で、とりわけ気候は民家の形態に直接影響を与える要素として重要な意味を持っている。」
私は最近思うに、私の仕事の柱である住環境の気候改善のための家際の雑木植栽、それは今の住宅事情だからこそ必要なことであって、かつての、日本の気候風土に適応した民家の暮らし方においては、私の仕事は必要性がなかったことと思います。
今の劣悪な街環境と住まいの敷地環境、そして気候風土に関係なく、家だけで実測可能な快適性を満たそうとする今の住宅建築の主流。そんな時代だからこそ、私たちの仕事が求められます。
しかし、これは過渡期であるべきことと、思います。
本当の住環境の快適さ、故郷の思い出と誇りを築ける街や家の在り方、今の日本の住環境、失ったものが多すぎます。
私は、今の私の仕事が必要性を失う日を夢見て、そして仕事しています。変なものですが。。。
今の文明は持続できない社会。この文明を発展させるためには、我々が謙虚になり、かつての素晴らしい知恵とたくましさを取り戻すこと、それしかないように思います。
自然と共生してきたかつての日本民家に学び、これからの時代を創造する住まいを考えようとして編集されたこの本は、13年も前、1999年、つまり前世紀に編集されました。13年前の先見性にいまだ追いつかないのが社会と言うものでしょう。危急の事態に対面しても、それでも社会全体が変わるには多大な時間がかかります。
この本の中で、建築計画原論の創始者の一人、木村幸一郎氏の下記の言葉が引用されています。
「民家はその土地の得やすい材料によって、特別の高級な科学的知識を待たないで、その土地の人たちの長い経験と習慣から構築されているので、人知の程度と周囲の自然の関係をもっとも端的に、つまり、あからさまに表している点で興味深く、且つ教えられることが少なくないのであります。」
我々の将来、子供たちの未来、それが持続できるものでなければ、どんな発展も経済的な豊かさも何の意味もありません。
我々はどうあがいても自然の一部でしかありません。どんなに科学が進化しても、我々は病気になって死ぬという普遍の事実を変えることはできません。
持続できる社会、将来の豊かな国土、そんな視点に立って社会が築かれることを目指して、自分の仕事をシフトチェンジしていきたいものです。