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雑木の庭つくり日記

惜秋の山稜           平成27年10月28日
 

 上高地小梨平のカラマツ林の残照。

 年の瀬の足音が早くも聞こえてきそうなあわただしい日々の中、お客様とのかねてからの約束で、北アルプスの山を駆け足でご案内させていただきました。

 「こんな時期に山に行くなんて・・・、」と、お待たせしているお客様方々の叱咤が聞こえてきそうですが、秋の名残のようなこの時期の山はまた、本当にいいものです。

 1日ばかりの駆け足山行でしたが、珠玉のような今回の山行写真を、やはり駆け足で以下に紹介したいと思います。



 午後、穏やかな日差し差し込む梓川越しの穂高連峰。



 朝の焼岳遠望。



 火山活動と風雪による崩壊が進み、深く巨大な谷が刻まれる焼岳の山腹。



 飛騨と信濃の国境、北アルプス主脈稜線上の焼岳小屋の佇まい。



朝日に照らされて輝くクマザサの葉。



 稜線から穂高連峰を望む。



 蒸気湧きたち硫黄の臭い漂う山頂付近の岩場。



焼岳北陵山頂にて。



 渦を巻き、音を立てて水蒸気を吹き出す火口部。



 大正時代の大噴火によって生じた山頂のカルデラ



 峰々の合間を流れる梓川源流を望む



霊湖、明神池と、穂高神社奥宮のご神体、明神岳。



清流梓川とカラマツの紅葉。

 去りゆく秋の山々は静かで清らかで、心洗われる思いです。



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
黒部川源流紀行 完結編          平成27年8月13日


 入山して2日目、澄んだ青空のもと、黒部川源頭部の名峰、黒部五郎岳に登頂します。
遠くに見えるのは槍・穂高連峰です。
 北アルプス連峰主脈の中心に位置するこの山頂からは、360度の大パノラマが広がります。




 南方に、噴煙を上げる御嶽山が望めます。火山爆発は終息しても、こうしていまもなお、数百メートルに及ぶ噴煙が立ち上っている姿を遠望します。



 黒部五郎岳の北側斜面には、夏でも溶け尽くすことない広大な雪渓が点在します。これこそが、富山平野の豊かな生産力と土地再生力を数千年の時を超えて支え続けてきた、黒部川を中心とする水脈の源です。



 黒部五郎岳に限らず、黒部源流となる稜線下では、広いU字型の谷地形が刻まれています。
 ここは1万年くらい前までは分厚い氷河におおわれていて、その氷河の移動によって岩が削られ、こうした圏谷(またはカール地形)と呼ばれる、ヨーロッパアルプスを彷彿とさせる、高山特有の地形が生じます。
 
 この上部に今も、万年雪となる雪渓が残り、その雪解け水がカール中心の谷筋を流れ落ちていきます。これが夏でも冷たく清らかな水脈の発端となるのです。



 雪渓から浸みだす冷たく清らかな水は、多くは大地にしみ込み、地下の水脈を通りつつ、そして一部は地表を流れて谷筋の空気を冷やしていきます。
 そして谷間の水が作る地表の温度差が空気の動きを作り、地形に応じて複雑に入り組む植生を育むのです。



 白い雪は夏の強い日差しを吸収せずに反射して、いつまでも溶けずに地を覆います。、こうした白い雪渓の笠の下で、地温によって溶けた膨大な水が徐々に地にしみ込み、下へ下へと移動していきます。



 雪解けの岩場に点在して覆うチングルマや、



ミヤマキンバイなどの高山植物のほとんどは氷河時代の生き残りで、当時陸続きだったロシア極東部や樺太、カムチャッカの野草に共通します。



 小さな植物たちはこんな厳しい高山の岩山にも土壌を生成させていき、清らかな水を蓄えて、雪渓の水と共に絶えずその水を、人の暮らす平野部にまで送り続けているのです。
 そしてその清冽な水のとめどない動きが、流域の水と空気を引き込みつつ、土中に空気を送り込み、それぞれの環境に適応したにぎやかで変化溢れる健全ないのちの営みを育み続けてゆくのでしょう。



 雪に閉ざされる期間が長い、こうしたカールの底面には、高山性の草本群落が広がります。冷涼な気候の高山の草原はところどころ湿原の性質を帯びて、その表層土層に膨大な水を貯えます。



 中部山岳の稜線付近では、周囲からの流入水の得にくい高い位置にも、こうして池塘が点在します。
 雨が降らずともなかなか枯れることのない池塘の水は、高層湿原の特徴です。

 夏でも冷涼な気候に支配される高地では、低温のために植物の遺体は十分に分解されずに半分解の状態のまま、泥炭と呼ばれる黒いスポンジ状の土層が堆積していきます。
 泥炭層が厚くなれば水を蓄えてその株に不透水層を形成し、こんな高地の草原にあって枯れることのない自然の調整池となるのです。



 高山の地表断面は、こうした泥炭層と風化土壌とが層状に堆積している箇所が多く、このことが、高山の厳しい環境で繰り広げられる、風と水と雪とが作るダイナミックな変化を感じさせます。
 高山草原と高層湿原を繰り返しながら、大地に土層を刻んで、その性質の違いから複雑な水の動きを生み出して、そしてこの地で様々ないのちの営みを許容する可能性を育んでゆくのでしょう。



 そして、ちょっとした地形の変化によって水の動きは大きく変化し、それによって植生も大きく変わります。
 そのわずかな地形変換線となる境界部分は、高山の厳しい環境で深くえぐられて縁が切られ、そこに水と空気の通り道が作られて、それがお互いの領域へのインパクトを緩和して、それぞれの領域における環境を区切り、植生を見事なまでに分かつのです。

 そして、若干の傾斜を持って高位を得た面は、ここではチシマザサを中心とした群落が広がります。
 そのチシマザサを含め、草原はまるで刈り払われたように整然と、低い均等な高さで密生し、まるで動物の毛皮のように土壌を覆って地表を露出から守っています。

 このきれいな刈り払いこそが、高山を抜ける風の仕事なのです。

 競争して上へと伸びようとする植物たちも、その土地の土壌の質や量によって、上部へとあげられる養分も水も制約されます。こうした栄養の乏しく有機物土壌層の薄い高山では特に、ある一定の高さよりも上には、勢いの弱く細い新芽しか立ち上げることができなくなります。
 これを、高山の強風が撫でるように刈り取っていくことで、こうした刈り込みのような整然とした地表のマントが形成されるのです。
 そして、風が上部を刈り取るという作用が恒常的に行われることで、植物はその環境を把握し、受け入れて、その環境条件の下で生きようとすべく、根の徒長成長を諦め、地上部の高さに応じた根の位置で細根を盛んに出していきます。
 そして地表に密生した細根は土壌を浸食から守るだけでなく、しっとりした細かな隙間から水を浸透させて土中に蓄えられやすい状態を作ってゆくのです。

 風が行う植生の制御、水や土の管理、そしてそれが土壌生成に大きく寄与して、この土地の恒常的な生態系を作り上げてゆく、そんな自然の摂理に改めて驚嘆します。

 こうした自然の摂理を人間社会に応用し、本当の意味で人と植物との共存関係をつくってゆくことで、どれほど人の環境は豊かで快適なものになってゆくことでしょう。

 今後は再び自然に学び、人の都合で自然を強引に制御しようとするのではなく、人も木々も草葉も生き物たちも健康に共存していける、そんな地球を目指すべく、生き続けたいと誓います。



大地の水が植物の作る細胞のような土壌の中をゆっくりと移動して凹地に集まり、そして沢筋が生まれます。ここでは風と水の微妙な動きの違いによって、沢筋にダケカンバ林を形成しています。
 植物たちが必死に生きる森林限界付近では、ちょっとした環境の違いで地表の様相が大きく変わる、そんなダイナミックないのちの営みを肌身で実感します。



 そして入山3日目、高山に囲まれた天上の楽園、日本最後の秘境とも言われる雲ノ平を望みます。
 雲ノ平は黒部源流の高山の山稜に囲まれて、池塘と岩と高山植物であふれる、北アルプス核心部の山上の草原です。
 そしてこの山域こそが黒部川源頭部となります。黒部川は広大で肥沃な扇状地を潤して息づかせて、そこに豊かな土地を作り、大地を浄化しながら富山湾へと注ぎます。
 
 11年ぶりに、水の楽園 雲ノ平を訪ねます。



 懐かしの地、雲ノ平を歩くにつれて、11年前とは確かに違う異変に気づきます。
 大地が乾いているのです。



 雲ノ平の木道沿いのかつての池塘はほとんどが枯れ果てて、そしてその底は乾燥してひび割れまで起こしているのでした。

 清らかな水をたたえて輝いていたかつての雲ノ平の記憶をたどるものにとって、この光景はすぐには理解できないほどの衝撃を与えます。



 山小屋の若い従業員に、「いつから水が消えたのか」と尋ねると、「しばらく雨が降らないから。雨が降ればまた水が溜まる」との答えでした。
 
 それは違います。高山や高緯度地域などの冷涼な湿地の池塘は、単なる水たまりでは決してありません。

 水を通しにくい厚い泥炭層に守られて周囲の草原のわずかな絞り水を集めてめったに枯れることのない、それが高層湿地の池塘です。
 そして呼吸する大地の高山では、晴天が続くと言えども、夜の間に雲が再び地表に降りて大地に吸い込まれ、あるいは草葉に付着して水滴となり、それがまたゆっくりと地上と地中を動きながら池塘に水分を供給するため、清浄な水がなかなか枯れずに存在するものなのです。

 そしてこの高層湿原の池塘こそがその地の水分バランスをコントロールして高山の命の絆を豊かにしてきたのです。

 それが実際に、この10年の間に池塘の水が簡単に枯れてしまう環境へと変わってしまったのです。
 おそらく、温暖化に起因する生物環境の変化の結果なのでしょう。

 乾燥してひび割れた池塘の底を見ると、すでに泥炭は分解されて通常の細粒土壌と成り果てていたのでした。
 氷河期以降の数千年のこの地のバランスまで、わずか10年の間に急速に壊れた様子を目の当たりにし、愕然と力は萎えて言葉を失います。
 山に力をもらいに来たのに。



 
 気を取り直して歩き出すと、水を蓄えた池塘に出会います。しかしそれはもはや、かつての清冽ないのちの水ではなく、淀んで腐った停滞水となっていました。

 この池塘脇のハイマツ(写真左側)は、滞水によるヘドロ化と有機ガスの影響で枯れ始め、周囲には滞水の地に優先するイワイチョウが覆い尽くしていました。

 まぶたに残るかつての楽園、日本最後の秘境と呼ばれたこの地も今や、あっという間に壊れてしまったことを知りました。

 もちろん、新たな気候環境が継続すれば、自然界はそれに見合った生態系を再構築してゆくことでしょう。
 しかし、今後もさらに、急激な気候変動は加速度を増してゆくことを想えば、その急激な変化に対して、どれだけ自然は対応してゆけるものなのでしょうか。

 人間の想定域を超える、そんな生き物の存立危機事態がすぐ目の前に来ていることを、雲ノ平の環境激変が教えてくれます。



 そして吉良アルプス核心域の雲ノ平を後にしてひたすら谷間へと下ること3時間、断層の合間を抜けるような黒部川本流に抜けます。
 山中に会って圧倒的な水量を誇る黒部源流は今もなお、力強く命を育むその役割を果たしているようにも感じます。



 下山後の帰路、安曇野の大王わさび農場に寄ります。安曇野の原風景のような風景が残されるこの地は北アルプスからの膨大な湧き水を導いて戦前に作られた日本最大規模のわさび田が広がります。
 ここはまた、黒沢明監督の映画「夢」の第8話、「水車のある村」の撮影がこの地で行われたことでも知られます。ここには今、年間120万人もの観光客が訪れる、安曇野随一の観光地となりました。


 
 
 一日に12万トンと言う膨大な湧水は年間を通して水温摂氏12度程度と一定で、ワサビの生育に非常に適した環境を作っています。
 今から100年近く前の機械のない時代、この広大なわさび農場開拓と共に地形造作による治水工事が人の手によって行われ、その結果、100年近くたった今に続く、美しい安曇野の原風景が作られたのです。

 美しい地域独自の原風景はこうして作られてきたのです。

 まだまだ書き足りない、感動多い実りある旅となりました。旅先で、頭の中はフル回転し、そして自分の生き方、仕事に対する熱い情熱が再び沸き起こります。
 あと数日で今年の後半戦が始まりますが、またいろいろあることでしょう。出会い、学び、そして良き社会を再構築するため、力と智慧を尽くしていきたいと願います。

 最後に、この大王わさび農場百年記念館で見かけた言葉をここに記して、旅報告を締めくくりたいと思います。

「自然の力こそ

誰もが、ひそかに流れる地下水が、いったいどこから来て、どこへ去るのかを知らない。
とにかく誰も、地下水のルーツをつまびらかには知らない。

 人は自然の恵みをあまりに当然のこととして享受してきたようです。
ところが最近になって、産業間や自治体間に水利用の競合が激しくなり、その結果、ようやく地下水のルーツに関心が高まってきて科学のメスが入れられるようになりました。
 しかし、十分な科学的調査、研究が行われる前に、安曇野は激変の時を迎えることになります。
 今やだれもが地下水や河川の汚濁、枯渇に気付くようになったのです。

 これは終わりではなく、むしろ大変革の始まりでさえあります。(このことは20数年も前から同じように言われ続けてきました。)
 ともすれば歴史的所在である風土が、つかの間のうちに滅んでしまう可能性さえもっているのです。

 つまり、人知の結集であるはずの近代化は、時として、優れた風土を踏み台にして、のし上がることがあります。

 自然と、先人たちの合作である秩序を簡単に破壊してはならない。

 安曇野の大きな包容力や優れた風土は人知によって、さらに育成、強化されねばなりません。

 そんな願いを込めて、ささやかながら、「大王わさび農場百年記念館」からのメッセージとして、ここに結びたいと思います。」


 

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
水と風のふるさと紀行 黒部源流の旅(その2)  平成27年8月12日


 満天の星が降り注ぐ夜明け前に太郎平の山小屋を出立し、稜線上を歩きながら、おごそかな夜明けを迎えます。
 日々平等に繰り返される新しい一日の始まりというものが、これほどまでに静かで荘厳なものだということも、忙しない日常の暮らしの中ではついぞ忘れてしまっているということに気づきます。

 真夏といえども3000m近い稜線上は肌寒く、静かで、雲も小鳥たちもそして風にわずかに揺れてざわめく草も木も、世界の全てが夜明け前のこの、神秘的な時間をかたずをのんで見守っているようです。



 夜の間に谷間に帰って静かな雲海の眠りについていた雲たちも、夜明けの足音を敏感にかぎつけて、ざわざわと動き始めるのです。
 


 遠くの空では、日の出の瞬間を今か今かと待ちきれないかのように背を伸ばした雲の先端が、生まれたばかりの今日の朝日をいち早く浴びて、ピンク色に染まります。
 そして太陽が奏でるリズムのもと、それまで眠っていたように静かだった雲はむくむくと起き上って、人間や多くの生き物たちと同じように、一日の活動を始めるのです。

 これが3000mの高山、天上の世界の日常です。

 地球上のいのちをつかさどって指揮するのは太陽の仕事、その熱が空気を引き揚げて動かし、そしてすべてを流れるが如く調和のリズムで回転させていき、まるでオーケストラのようにいのちの謳歌を奏でるのです。



 稜線の向こうから今日の太陽が顔を出しました。日に向けて、合掌します。
 ありがとう、これからも、、ずっと。
 山上の夜明けを目の当たりにする人たちはここで、一人の人間という、この地に生かされる存在に戻るのです。

 今日の朝日に手を合わせて向かい合う中、7年くらい前に通っていた吉野山金峯山寺の山岳修行を思い起こします。
 朝3時に麓のお寺を出立して山岳を回峰し、そして日の出を迎えて手を合わせ、お経を行じ、今日の恵みに感謝し、力を頂く。人はその心持ちを忘れてはならない、人が人であるために。
 そんなことに改めて気づかされます。




 朝の光が草原を静かにきらめかせて、限りないいのちの美しさに見とれます。夜露に濡れた草花たちの輝き。なんという美しさ。

 夜の間、冷えた上空の空気の重さに押されるように、空気中の水たちは、その多くは大地に帰っていき、空気と共に土のしとねに潜り込んで眠りにつきます。
 そしてその一部は大地に潜り込むことなく、昼夜の温度変化の少ない草や枝、谷間に潜んでそこで気体が液体となり、そして眠りにつくのです。
 山上の雲は夜の間谷間で眠り、そして草葉の上で水滴となってまた一夜、安らかな夜の眠りにつくのでしょう。



 朝の日差しが地表を温めはじめると、谷間で眠っていたような雲たちも、にわかに一日の活動を始めるかのように動き始めます。
 それと同時に、地中に潜って眠りについていた空気もまた、地上に湧き出して、しっとりした心地よい土の香り漂うそよ風となって移動していきます。

 地中と地上の空気と水は、こうして行き来しつつ、いのちの世界の営みを育み続けてきたのでしょう。



 そして、夜の間静かに眠っていた谷間の雲は、日差しを浴びてまるで渡り鳥のように足早に移動を始めるのです。

 これが自然の姿です。
 すべての生きとし生けるものたちを息づかせて動かす水と空気は、太陽の指揮の下で空と大地、地上と地中を日常的に行き来して浄化され、一日一日が新たな営みとして再生されてきたのです。それこそが、地球の営みであり、いのちの営みと言えるのでしょう。

 こんな世界を久しぶりに目の当たりにすると、子供のころの夏の記憶が思い出されます。
 もう、40年近く前のことですが、今もその頃の身近な自然の営みがありありと鮮やかに浮かびます。

 キジバトの声の下、澄んだ朝日を浴びて動き出す爽快な空気、草場の夜露に濡れながら夜明け前から友達と待ち合わせて虫捕りに熱中した夏休みの日々、夕方の虫の音、そして静かで涼しい夜の褥に、昼間のにぎやかな虫たちも鳥たちも共に眠りにつく実感、そんなものが身体の記憶として自分の細胞に刻まれていることに気づきます。

 コンクリートに覆われて、そしてエアコンの廃熱が地表を覆う人工環境の中、空気と水はどこで安らかな眠りにつけるのだろうか、そんなことを考えて重く沈みそうな心を、山の爽やかな空気がやさしく慰めてくれます。

 固く傷んで命を失った大地はもはや、空気と水が日々帰るべき安らぎの家とはなりえないのです。
 都会の夜の空気と水は、帰るべき家を失ってさまよう人のように地表に停滞し、そして疲れて淀んだ朝を迎えてなお動かぬ、湿度の高い不快なモヤがコンクリート世界を漂います。

 大人が作ってしまったそんな環境の中に生きることを強いられる多くの子供たちを救いたい、そんな想いに体が熱くみなぎります。
 都会の空気と水が人の心の原風景の中で当たり前になってしまえば、何を基準に正しい判断がなせるというのでしょう。

 山で迎える夜明けは今も新鮮で美しく、人として、自然として、あるべき摂理を語りかけてくれます。そしてそれは、自分が人間である以前の記憶をも思い起こさせてくれるように感じます。
 人間である以前の記憶が活きている限り、こんな時代でも人は道を修正できる、いのちが共に輝く世界を再生できる、そんなことをこの日、山が教えてくれたのです。



 さて、爽やかな山の空気を感じながら、黒部川のふるさとを目指して歩き続けます。
今日はここまでにして、そしてまた、旅紀行その3に続きますので、次回も是非、根気よくお読みいただければうれしいです。

 日々の忙しさを離れて束の間の長期休暇です。こんな時間が誰にでも必要なのでしょう。心と体を解放させてあげて欲しいと願います。そしてそこから聞こえてくる、自分の真実の声に耳を傾けること、それが人が良く生きるための大切なことだと感じます。




投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
風と水のふるさと紀行 黒部川源流の旅(その1)  平成27年8月11日


 ここは富山湾、昭和初期に行われた、魚津港建造の際に発見された魚津埋没林です。
 2000年前の杉の原生林が富山湾岸の海底に眠り続けていたのが、今もなお水中にあって、当時の木質と精気を衰えさせることなく、その一部が2000年間の眠りと同様の条件で、北アルプスからの地下水脈の流水に守られながら保存されています。

 魚津埋没林は日本の屋根北アルプスの広大な地下水を集めて流れる黒部川の最下流部、片貝川の汽水域にて、2000年前の河川氾濫と海面上昇が複合して埋没した杉の原生林の名残です。
 たまたまここは戦前の港湾建設の際に発見されましたが、それ以外にも今もなお周辺一帯に埋蔵されており、その痕跡は、2000年前からの環境の変化を現在に伝え続けているようです。

 それにしても、2000年もの間、海底浅瀬に埋没しながらも、当時の杉の巨大な根が朽ちることもなく、新鮮な姿で残ってきたのか、その鍵となるのが、北アルプス連峰から豊富に送られ続ける清冽な地中水の動きにあるのです。

 埋没林の周辺では、3000m級の峰々から流れ落ちる膨大な水が海辺の扇状地で湧き出し、一部は地表を流れ、そして多くは地中の流れとなります。そしてその流れは大量の酸素を常に土中に送り込みつつ大地を浄化し、その清らかさと雪渓に端を発する低温を保ち、それが埋没林の海中に滾々と流れ続けてきたのです。
 これが単なる海底浅瀬の埋没林であれば、2000年どころか数百年程度でほとんどが朽ち果ててしまうことでしょうが、膨大な水量の湧水が常に供給されるこの海域特有の環境ゆえに、2000年前の巨木の森の名残をこうして今に伝えるに至ったのです。



 2000年前の大地の環境の下で巨木となった杉の根は、今にもむくむくと動き出しそうなくらい、力強い精気を感じさせます。
 その精気に打たれて心は震え、涙が目頭までこみあげてきます。
 この巨木の根は数千年の時を超えて今もなお、大地の循環に帰してゆくことなく、清らかな水脈に守られながら、木としての凛然たるいのちの力を今に伝え、そして見るものにかつての大地の力を浴びせかけ続けてくれているのです。
 太古の大地の力強さを想う時、今の時代を生きる私たちの生き方暮らし方、人間としての在り方を根本から問い直される思いに突き動かされます。

 数万年、数千年の時の流れというものは、人の一生から見ると長いようにも感じますが、地球の歴史から見るとほんの一瞬の出来事で、その中で地球は変遷し、プレートがぶつかり合って隆起沈降を繰り返し、陸が海になり、そしてまた陸地が生まれ、絶えず変化し続ける地球上のほんのわずかな表層で、いのちの営みが繰り広げられ続けてきたのでしょう。

 海底に埋没した2000年前の巨木林の名残は今もなお、あまりに多くの摂理を語り続けているようです。

今回、黒部川河口域からその源流を訪ねる6日間の旅の中で、全てのいのちの源となる水の動きを追いかけます。



 そしてここも黒部川河口域、入善町の杉沢と呼ばれる天然杉林で、沢スギと呼ばれます。
海岸沿いの低湿地でありながら、黒部川が作る扇状地末端の湧水に端を発する水脈沿いに、昔から沢杉と呼ばれる杉林が成立してきたのです。



 杉沢の森の中では、常に大量の地下水が湧き出して清らかに流れ続けています。
 杉は本来、湿地にも乾燥地にも生育しにくく、健全な山の斜面谷筋などの肥沃で湿り気がある土地によく生育しますが、沢スギがこのような海岸低地の沢地に生育してきた理由はこの、高山から供給されて大量に溢れ出す湧水にあるのです。
 常にこんこんと流れ続ける清冽な地下水が土中に大量の酸素を供給し、それが樹林の呼吸を支えてきたのです。

 大地を流れる水脈こそが、あらゆる命を育む大地の血管と言っても過言ではないでしょう。
 そしてその水の多くは地表ではなく大地の中を流れ、そしてときに表面に川となって現れます。
 自然界の事象を理解するためには、目に見える川や沢と表裏一体の、目に見えない地下の水の動きに注意を払う必要があります。

 健全で力強い水脈こそが豊かな自然の呼吸脈であってその土地の豊かな再生力を生み出すということは、この地で昔から経験的に知られてきたのか、あえて湧水の水路を掘って流水を良くし、杉が育つようにしている、人による水脈誘導の痕跡も見られ、かつての智慧の深さに感じ入ります。



 深山の趣を感じる清らかな森の様相はとても海岸沿いの低湿地とは思えません。
 この森の面白さは、奇妙な形状でたくましく生きる杉の木の佇まいにあります。林内にくねくねと曲がって伸びるほっそりした幹はなんと杉なのです。

 豪雪地帯のこの地では、杉のような重たい葉を蓄える樹木は、その生育段階で幾度も雪に埋もれて倒伏します。
 曲がった形状はこうした風土環境に適応した沢杉の姿と言えるでしょう。



 くねくねと曲がって伸びる沢杉の幹が雪につぶされて地に接すると、そこで根を出し、そして新たな幹を上へとのばしてゆくのです。
 こうした樹木再生の在り方を、伏状更新と言います。この厳しい風土の中で適応し、生きる術を身につけたがゆえに、この地で天然の杉林が生育し、そしてそれはこの地に生きる人の暮らしに活かされ、長い間この地に暮らす人たちによって大切に守られて続けてきたのでしょう。



 柔軟で不思議な形状のこの森の杉たちは、植物と動物の境目を感じさせないほどの躍動たる、いのちのたくましさを感じさせてくれます。



 海岸沿いにこんこんとわき出す清冽な水が、この豊かで地域特有の森を育み支えてきました。
 かつては入善町海岸付近の湧水沿いに沢杉の森は無数に点在しており、その面積は合計140ヘクタールに及んだと言われますが、今ではこの杉沢一カ所、約2.7ヘクタールのみとなってしまいました。
 多くは昭和37年ごろから始まった、圃場整備事業によって伐採され埋め立てられ、整然と区画された水田へと姿を変えられていったのです。



 日本の風土は、昭和30年代後半から50年代にかけて、農山村含めて大きく変り果てました。
 なだらかな起伏豊富な自然地形はこうして平坦に造成されて、整形的な農地として整備され、そして湧水のうち地表の水はコンクリート水路にて直線的に排水されています。
 その一方で膨大な量の地中の水は、一部は新たな水脈を自然に再生して海に流れ、反面に多くは土中に滞水して生き物環境の呼吸を妨げてしまい、本来豊かだったこの地をますます弱らせ続けてしまっている、それが現実の姿なのでしょう。
 
 長年の間、この地の自然環境と共存しながら豊かな命を育んできた本来の環境は、今はほとんど見られません。
 戦後に全国的に始まったその土地特有の風土やを無視した開発、土地利用の在り方は、今も大筋で何も変わりませんが、近い将来必ず方向転換していかねばなりません。

 圃場整備と機械化、農薬除草剤肥料の大量使用による戦後の農法は、一時的には確実に収量を高めましたが、その土地の自然環境を破壊し負荷をかけ続け、大地の絆と循環を妨げ、自然本来の生産力を悪化させ続けるこんなあり方の先に、子供たちに伝えるべきどんな未来があるというのでしょう。

 「コンクリートに覆われた田舎に誰が帰りたいっていうの?」見聞きしたそんな言葉が脳裏にかすめます。



 そんな中でも、杉沢付近の森の近くには、湧水を誘導する素掘りの溝が掘られ、空気と水の通る健全な環境がわずかに見られ、その空気感が心を慰めてくれます。
 心地よく、ひんやりした土の香りは、地中と地表の空気循環が生み出します。空気の流れも水と同様、地表ばかりではなく、見えない地中との行き来をも想定していく必要があります。
 そして、五感を研ぎ澄ませば、空気と水が健全に流れる本来の心地よさを私たちは思い出し、感じ取ることができるのです。

 素掘りの水路を伝う水は周辺土中の余分な水を集め、そして乾燥時には周辺土壌に水分を供給し、大地の環境を潤すのです。
 人が掘った手掘りの溝は有機的でほほえましく、そして自然の理に合致して共存しています。こうした名残を見るにつけて、傷んだ大地はまだ取り戻せる、そんな希望を感じさせられます。

 杉沢の杉とその周辺の環境は、わずか数十年前に奪われていったかつての美しい人と自然の営みを今あらためて偲ばせてくれます。



 そして今回、黒部川最源流の水源山域を踏査すべく、標高1300mの入山口に車を置いて歩き始めます。ここから丸4日間の山籠もりに入ります。



 黒部源流は、北アルプスの核心部最奥の高山に端を発します。その水源の山々に登るには、奥飛騨側、信州側、富山側とのかつての3国からのルートがありますが、今回は富山側、標高1300mの折立登山口から入山します。

 透き通る青空と冷涼な森の空気が体と心を吹き抜けていきます。



 登り始めてしばらくは深遠な森の中を行きます。
 日本の屋根、北アルプスにおいても最も深い山域を目指して登りつつ、力強いいのちの営みを感じます。
 心に留まったのがこの巨木。地上2m以上の位置から根を下ろしています。これは枯死した巨木の上に落ちた実生が根をおろし、周囲に生い茂る熊笹との競合から解放されてすくすくと伸びていったのです。
 深い山中ではごく一般的な光景ですが、多くの人に伝えたい、いのちの営みです。
 林内に降り注ぐ木々の実生、その多くはクマザサなどの深い林床植生に埋もれて消えてゆくのが宿命なのですが、そんな中、枯死した巨木や倒木で浮き上がった巨大な根などが腐植して、しっとりしたスポンジ状になった状態の場所に幸運にもこぼれ落ちた実生がすくすくと伸びて根をおろし、そして次代の巨木となって森の環境を守る担い手となってゆくのです。
 適度に腐植してスポンジ状になった植物遺体は、通気環境的にも透水環境的にも、あたらな命にとって非常に適した心地よい生育環境を提供します。そこに落ちた実生は様々な競争にさらされてなお強く勝ち抜くアドバンテージを得るのです。

 こうした森の営みと新たないのちの再生の在り方を、マウンド更新、あるいは倒木更新と言います。
 つまり、朽ちた木が土に還ってゆく過程で新たな命を育む、「いのちのゆりかご」となるのです。



これは倒木の巨大な幹の上に生育する木々。おそらくここにこぼれ落ちて根付いてから、50年以上の歳月を経ているのではないかと推測されます。
 それなのに、今もなお、この倒木遺体は朽ちきることなく苔に覆われながらも幹としての形状を保ち、そしてその上に新たな木々の命を育み続けているのです。



 そしてこれは根返りして倒木したシラビソの幹が、隣の立ち木にひっかかることによって完全な倒伏を免れ、そして生き続け、たくましく新たな幹枝を再生させています。
 深山で繰り広げられる木々のいのちの営みとたくましさは見るものに負けない力を与えてくれます。
 地球上のいのちが本来持つ、生きようとする力、それこそが未来への希望となり、人知れず空間に清浄な力を漂わせ続けているのです。
 久しぶりに帰ってきた、そんな心境に浸ります。



そして森林限界を超えると一気に視界が開けます。



 稜線に抜けるとそこは風と雲の世界です。夏山の午後、高山の稜線では、快晴の日であれどもこうして雲が上がってくることが通常です。
 芝生のようにも見える緑のじゅうたんは、高山の寒風が撫でて作った息づく大地の証です。
 高山の草原とハイマツ帯とが地形に応じて整然と見事に住み分けて、水と空気の微妙な動き方の差異にによって繊細に変化する限界域の植物の営みを注意深く観察し、様々なことに気づかされます。


 感動と会心の旅の報告は、まだまだ続きます。
いつもに増して長くなりますので、いったんここで区切らせていただきます。
 後ほどアップさせていただく予定の「旅報告その2」を、どうかご期待くださいませ。

 

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
自然環境と共に生きる アイヌ文化を訪ねて    平成26年9月30日



 ここは北海道苫小牧市、樽前山麓に位置する錦大沼。支笏湖を見下ろす名峰樽前山の南側流域には、今もこうした自然の湖沼や天然のままの河川が散在し、豊かな森に守られながら、太古から続く生き生きとした大地の息吹を感じさせてくれます。

 写真右奥に見える湖畔の浅瀬には、豊かな葦(アシ)が広がります。
 かつての日本、川も山も本来の命であふれていた時代、こうした葦原は日本中いたるところの湿地や川沿いに広大に広がっていたことでしょう。
 日本書紀の記述によると、日本国のことをかつて、葦原国(あしはらのくに)、または豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)と称されていたことが分かります。
 その意味するところはすなわち、
湖畔や川岸に豊かな葦が生い茂り、その中に五穀豊穰の沃土が広がる自然の恵み豊かで美しい国土を表しています。
 はるか昔、倭人(大和民族)の祖先が海を渡ってこの国にたどり着き、その大地の豊かさ、美しさにどれほど感銘を受けたことか、葦原国という名前の響きと共に想像させられます。

 水辺の葦は、水を浄化し、下流域の住民に至るまで清浄な生活用水を提供し、さらには魚や水鳥をはじめ豊かな生き物の住処となり、そしてそれはかつての屋根葺きなどの材料として、日本全国でごく普通に用いられてきました。
 そうした、かつての日本の代名詞に等しい、豊かな自然とそれを表す豊かな葦原も、今ではごくわずかとなりましたが、この北海道の大地で命溢れる太古の日本を見つけたような、そんな雄大な想いに駆られます。



 湖畔にどこまでも広がる自然林。
 ミズナラ、ホオノキ、カツラ、シラカバ、ウダイカンバ、オヒョウニレ、ドロノキ、ハンノキ、ヤマグリ、カエデ、ナナカマド・・・。太平洋に近い低地ゆえに、北の大地にしてはやや温暖なこの周辺では、冷温帯性の落葉広葉樹林が生き生きと、美しく恵み豊かな様相を見せています。




 そしてここは苫小牧の隣町、白老町のポロト湖。カツラの木をくり抜いて作られた丸木船が、この地で長い間営まれてきたかつてのアイヌの人たちの暮らしぶりがはるかに偲ばれます。
 このポロト湖周辺には昔からアイヌの人たちの集落があり、今はアイヌ文化を伝える博物館として、当時の暮らしを伝えます。
 アイヌの丸木舟は、水辺の山中によく生育し、材が軽くて柔らかく加工しやすいカツラの木が、主な材料として用いられてきました。

 

 丸い穴は道東南部の森に見られるクマゲラの食痕です。東北以北の森の中に住む大型のキツツキ、クマゲラは、アイヌ語で「チップタッチカップカムイ」と言います。その意味は、「舟を掘る神」というもので、クマゲラは丸木舟のように楕円形に穴をあけることから、こうした名前が付けられたのでしょう。
 アイヌの世界では、身近な自然界の様々な生き物を神(カムイ)の化身した姿と見て、それぞれの役割を持ってこの地上世界、人間社会に存在すると考えてきました。
 こうした名前からも、とてもユーモラスな神との関係が感じられ、人も動物も植物も同じ地上の生き物として一つの大地に共に暮らす、そんなアイヌの自然観が感じられます。

 今回、私が所属する日本茅葺き文化協会(代表理事 安藤邦廣筑波大学名誉教授)主催の研修会で、アイヌの里を訪ねるべく、北の大地を訪れました。



 チセと呼ばれるかつてのアイヌ民族の住居は、屋根も壁も葦や茅などの、当時身近にあった葦原や萱原の植物を用い、全てが身近な自然の中から材料を得て作られてきました。
 水辺の豊富な白老のチセでは、主に葦が用いられてきたようです。

 むろん、そうした生活資材は地域の自然環境によって異なります。
 壁や屋根の材料としては、アシやススキ、ササと言った草類や、カバ、ドドマツ、キハダといった木の樹皮など、その土地の自然環境の下、採取が容易な素材が用いられてきました。



 旭川市にある私設のアイヌ記念館に復原された、クマザサの葉で作られたチセ。その美しさと空気感に息をのみます。



 壁も屋根もすべてクマザサで丁寧につくられて、まるで生き物のようです。



 可愛らしい外観のチセの窓。チセには決まって、南側に2つ、東側に1つと、窓が3つあります。
 主に東側の窓はカムイ(アイヌ語で神)の出入りする窓で、この窓の外から家の中を覗き込んではいけないという決まりごとがあります。
 そして南側の2つの窓は、一つは編み物などの作業のための明り採りのための窓、もう一つは台所の水を外に捨てるための窓と言います。
 窓の外にはよしずがかけられただけの、簡素で美しく、とても可愛らしく感じます。

 極寒の北国において、特にこうした植物の素材を用いることで壁の内部に空気の層ができることによる断熱効果によって、家の中は暖かく保たれてきたのです。



 チセの入り口は、アイヌ語でセムと呼ばれる風防室の玄関兼物置から入ります。



 チセの骨組みは至って簡素で、近世以前にはこうした細い材で組まれてきました。柱の上に梁・桁を回し、その上に三脚構造の丸太組みを家の長辺方向に2か所組み、その上部に棟木をかけて、そこから扇状に垂木を降ろします。垂木は安定するよう、三脚構造の中段に母屋を廻します。この垂木に「サキリ」と呼ばれる細い桟木を横に通して、その上に笹などの屋根材を結わえつけてゆくのです。



 壁も同様、細かなサキリ(横に通した桟木)に笹を5本ずつ束ねて、綿密に結わえつけているのは、極寒の気候に耐えうるよう、万全の断熱を期したものなのでしょう。
 そして柱は、北の山中の主要樹種、ミズナラを用いて土中埋め込みの掘っ立て構造となっています。この構造で、30年程度は十分に耐えうると言います。

 かつてのアイヌの住居は形として残っておらず、現在あるものはすべて復原されたものなのですが、住居が跡形もなく残らない理由はこの、掘っ立て構造ゆえなのでしょう。

 この掘っ立て構造について、今回の旅に同行してくださった日本民家研究の第一人者、安藤邦廣名誉教授は以下の通り着眼され、話されました。

 掘っ立て構造と言えば、倭国(アイヌ文化に対して、ここではあえて日本と言わず、倭国と言います)においても、日本の代表的な神宮、伊勢神宮も掘っ立て構造なのです。
 建築の常識では、掘っ立て構造は未開時代のレベルの低い建築構造と思われがちですが、日本の木造建築技術の粋、伊勢神宮が掘っ立て構造というのはどういうことでしょう。
 
 その答えをこの、アイヌの住まいが明かしてくれました。



 このアイヌ記念館のオーナーである生粋のアイヌ人、川村兼一さんがこう話されました。

「アイヌでは、家は女性のものと決まっている。その家の旦那が亡くなったら、壁をくり抜いて外に出して弔い、そして天国から戻ってこれないように壁の穴を塞いでしまう。死んだ後は神の世界で生前とと同じように家を建て、狩りをして暮らす。家を建てるのは男の仕事だから、死んだ後は男はまた天国で家を建てる。
 しかし、その家の奥さんが死んだら、家財道具ごと家を燃やして神の世界に送る。女が死んだあと、神の世界に行き、そこに家がないと困るから送る。もともと家は女のものだから、跡形なくすべて送ってしまい、天国で困らないようにしてあげる。」

 アイヌの家送りは、近代には支配者である明治国家によって禁止されましたが、それまでのはるか長い間、その家の主の女性が亡くなると、家も家財道具もすべて燃やして神の国に送り届けてきたのです。
 掘っ立て構造だからこそ、すべてを送ることができるわけで、基礎があればそれは残ってしまいます。人間の体が死んだら灰になってすべて土に還るように、家も跡形もなく自然に返すために、掘っ立て構造が持続され、そしてまた、人の半生程度の期限で自然に期してゆくにはこの構造で充分だったとも言えるでしょう。

 こうした風習が、所有に対する度を越えた人間の欲望が化け物のように際限なく拡大して、自然との関係、神との関係を壊してしまうことがないよう、暗黙の自制に繋がってきたことは言うまでもありません。

 その土地で自給的かつ持続的に暮らしてきて、そして消えてしまった先住民族の暮らし方に現代のわれわれが学まねばならない点は、こうした精神性や考え方にあります。

 身近な自然や神々と共に生きてきた先住民族の無欲で美しい精神性に心打たれます。

 伊勢神宮の掘っ立て構造も、20年ごとの式年遷宮の際に古いすべてを自然に返して新しくするという意味ではこの構造しかなく、見方を変えれば自然と人とが輪廻しながらいのちのやり取りをするなかで近代にいたるまで守られてきた掘っ立て構造のチセの文化のとてつもない気高さに胸が震えます。



 チセの内部、真ん中には大きな囲炉裏に常時薪がくべられて、独特の火棚にサケやマスなどを吊るして燻製にします。
 内部に床はなく、土間の上に茅や、ガマの葉を編み込んだゴザを幾枚にも敷いて過ごしたと言います。

 「寒いのではないか」と思われる方が多いと思いますが、かつてのチセでは土間の表面温度は外が氷点下30度の極寒の時期でもなんと摂氏2度を下回らなかったとの研究報告があります。(宇佐美智和子 研究報告)
 アイヌのチセでは現代住宅においても最先端のパッシブ技術である、地熱の有効利用がなされていたのです。
 土間の表面を蓆で覆って風にさらされて熱が奪われにくくしておき、そして年中、ちょろちょろと囲炉裏をともし続けるのです。それによって地盤に蓄熱される上、地下からの温熱も土間に伝えて冬でも温かな住まいの環境を維持していたというから驚きです。
 実際に冬のチセで暮らしが営まれていた際の体感温度は20度程度だったと、宇佐美女史が観測によって明らかにしています。
 
 外部からのエネルギーを用いずとも快適で、そしてその土地の自然環境の中ですべての素材を容易に集めて住まいをつくり、家としての役目を終えたら大地に還す。今の建築技術が及びもつかない、驚くほどの最先端をゆく暮らしがはるか昔から、アイヌのチセにあったのです。

 今の世界、先進国とか、発展途上とか、後進国とか、そんな一元的で、未来の生存基盤たる自然環境の搾取と破壊の上でしか決して成り立たない、ナンセンスな価値基準が意味をなさなくなる時代が近い将来、必ず訪れることでしょう。その時を迎えることなく、今後も人類が持続してゆくためには、自然と折り合いをつけて生きてきた先住民族の暮らし方に学ぶ必要があることでしょう。

 「原始的」などと、悲惨な差別を受けてその誇り高い文化を破壊されてしまったアイヌ民族の暮らし方や世界観は途方もなく素晴らしく、持続的で、人間本来のあるべき姿を示しているように感じます。



 囲炉裏の脇には、火の神様を祭る、イナウと呼ばれる木を削って作られた木幣があります。狩りに出る際、このイナウに祈りをささげて、豊漁を祈ります。そして、例えばサケが採れた際には、一番おいしい部分であるハラミを火にくべて、火の神様に捧げるのです。
 反面、祈りをささげたにもかかわらず、不漁であった日には、「なぜ祈りを聞いてくれないのだ。その怠慢を改めねばお供えしないぞ。」と、厳しい口調で神様を脅すこともあると言います。あまりにも人間的でユーモラスな宗教観ではないでしょうか。

 ともかくも、サケが採れたときは、ハラミの部分を神様に捧げる他、内臓は外の木の枝に引っ掛けてカラスや獣たちに分け与え、その残りが人間の取り分となると言います。
(写真;白老ポロトコタンのチセ)



 囲炉裏でいぶして保存食とし、冬の食料となります。鮭はアイヌの暮らしに欠かすことのできない命の糧で、アイヌ語で「神の魚」を意味するカムイチェプと呼ばれ、その収穫の際にもサケの魂を神の国に送る儀式を行い、そして感謝をこめて命の肉体をいただくのです。(写真;白老ポロトコタンのチセ)



 神の国から役目を与えられて毎年たくさんのサケが川を遡上します。「来年もまた帰ってきてくれ」との祈りをささげて、収奪し過ぎず、生きる上で必要な分を収穫します。
 ちなみに、アイヌ社会では川は山から流れるものではなく、神の恵みを受けて海から人の世界へと登ってくるものと考えます。それはまるでサケがその身をさげて遡上してくるようです。
 アイヌにとって川も神聖な神の化身であり、そこで洗濯したり小便をすることは厳しく戒められてきたのです。



 話はチセの土間に戻ります。これは川岸や湿地に生育するガマを編み込んで作ったゴザで、これがチセの土間に敷かれます。
 断熱に優れて温かく、時にその中にガマの穂をほぐした綿を入れることもあったようです。

 

 これが収穫して乾燥させたガマの葉です。



 これを、オヒョウニレという、北海道に自生するニレ科の高木の、内皮の繊維を編み込んた糸で紡ぎ、優れた断熱性のある美しいござとなり、暮らしを快適にしてきたのです。



 オヒョウニレの繊維から糸をつむぐアイヌの女性。1枚のガマのゴザを作るのに用いる糸を紡ぐのに3週間以上かかると言います。



 仕上がったオヒョウニレの糸。ゴザの他、衣服や家屋における茅の結束など、アイヌの暮らしの中で欠かせないものとして様々用いられてきました。



 紡ぐ前のオヒョウニレの繊維。



 オヒョウニレの樹皮。皮をむきやすい5月から6月ごろに収穫し、そして繊維として使える内側の皮を用います。
 すべてはこうしたその場の森の恵みから、生活の糧を得てきたのです。



アイヌの食糧庫。ここに常時、平均して2年分の食糧が各自備蓄されていたと言います。



 そしてこれは、小熊の飼育用の柵です。
 有名な、「イオマンテ」と呼ばれるアイヌのクマの霊送りについては、耳にしたことがおありの方も多いことと思います。
 アイヌの人々にとって、全ての生き物は神の化身と考えますが、とりわけクマとシマフクロウは最も位の高い重要な神として丁重に扱われました。
 狩猟の際に母熊が小熊を連れていた際、その小熊を殺すことなく、この飼育用の檻で1年~2年間程度大切に飼育し、そしてクマの霊送りの際に、その魂を神の世界に送りかえすのです。
 その際、クマに様々なお供えと祈りをささげ、また地上に戻ってきてくれるよう、たくさんの土産を供えて神の国に還すのです。
 
 神の国に還ったクマは、土産を仲間に分けて、「人間にこんなにふるまってもらった」と、さかんに土産話を披露するのです。それを聞いた仲間のクマ神たちは、自分もその恩恵にあずかろうと翌年、たくさんのクマ神が人間世界を訪れて、賓客として迎え入れられることになるのです。
 それは現実的には、アイヌの人たちにとってたくさんの獲物が獲得できるということになるのです。
 このクマの霊送りは、人知を超える自然界を象徴する神と人との相互扶助的な関係が背景に感じられ、これが生きとし生けるものに感謝して分をわきまえて度を越さず、自然界において未来永劫にわたって共存して生きる、アイヌ文化の象徴として、語り伝えられてきました。



 2008年、先住民族サミットが開催された二風谷アイヌ集落を最後に、3日間の旅を終えて帰途に就きます。
 
 ここは今、日本初のアイヌ初の国会議員となった故萱野茂氏によって開設されたアイヌ文化資料館です。
萱野茂氏は、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知ってほしい」と、国会の委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られます。

 萱野氏は、裁判の末に、アイヌ民族をこの二風谷の地から強制的に追放した国によるダム建設を違法とし、アイヌ民族を先住民族として認める判決を勝ち取ったのです。
 
 このことは、少数民族に対する差別や民族の文化、生きる権利まで奪われてきた世界各地の先住民族にとって、大きな希望の光となりました。

 世界中の地域に、その土地の自然環境の中で自然を畏れ敬い、大地を崇め、感謝と節度を決して失うことなく、その土地の自然環境が支えられる範囲で分を超えずに暮らしてきた、先住民族がいます。
 収奪し過ぎれば、そこでの未来の暮らしはたちいかなくなります。そこに自然を神として人の分をわきまえる戒律や風習が生まれ、守られてきました。
 彼らの暮らしは敬虔で、豊かで、そして知恵にあふれたものでした。

 アイヌの暮らしと精神性、そしてその暮らしも人権も踏みにじられ続けた近世以降の彼らの境遇を想う時、国家とはなんだろう、経済とはなんだろう、強く考えさせられます。
 自給的な暮らしの豊かさは国家や権力者の豊かさに結びつかず、それゆえに世界中で自然と共に生きてきた先住民族の権利も暮らし方も迫害されて奪われ、同化を強いられ、貨幣経済に巻き込まれ、そして崩れていきました。

 アイヌ民族が近代以降、その命の糧というべき自給的な大切なサケ漁をも禁じられたのと同じく、熱帯アフリカや東南アジアの先住民たちも、自給的な暮らしを奪われて、プランテーションによる、商品価値のある単一作物の効率的な生産を強いられ、その文化も神も、自給的で持続的な生き方を失いました。

 人は大地から離れることで命の本質を見失い、そして独善的に歯止めを失っていきます。生きるということ、人間であることの本質たる知恵も失います。
 すべての欲望は歯止めを持たねばなりません。それを失ったとき、気付いた時にはすでに人類は未来永劫の生きる基盤を失ってしまっていることでしょう。
 その土地の自然と共に分を超えず、動植物の命に感謝して暮らしてきた、先住民族の生き方や精神性に、私たちは再び学び、そして原点に立ち返らねばなりません。

 先住民族に対する長年の激しい差別を想う時、最近のヘイトスピーチに見られる下劣な精神性、国連の勧告を受けてもいまだ本気で差別に対処しようとしないばかりか、それを利用する下劣な政権、下劣な政界財界指導者たち、そしてそれを生み出す日本社会に、どうにもならない情けなさ悲しさを感じます。

 これからの社会、未来のため、未来の子供たちのため、そして生きとし生けるものたちのため、課せられた役割をしっかりと果していきたいと思います。

 素晴らしい研修会を企画くださった日本茅葺き文化協会役員の皆様、そして親切にいろいろと教えてくださったアイヌの皆様、本当にありがとうございました。
 
 

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
 
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