現存日本最古の民家を訪ねて 平成23年1月9日
お正月の休暇は、日常を離れて人生や仕事を見つめ直す機会になります。
こうした時間を有意義に活かすには、旅に出かけるのが一番です。一昨日、長崎・神戸の旅から帰ってきました。
神戸市の名山、六甲山北側の山並みです。東京近辺の里山とは樹木の層も雰囲気も異なります。それが、この土地の風土と本来の自然、歴史的な人と山との関わりの総和なのでしょうか。
神戸に観光に来られる方々の多くは、貿易港としての神戸港開港以降に建てられた異人館や外国人旧居留地など、レトロな街の雰囲気を楽しまれる方が多いことでしょう。それがきっと港町神戸の一般的なイメージだと思います。
美しい神戸の街がこの地に育まれた背景には、海陸の便の良さばかりでなく、北側に広がる豊かな山々の恩恵が欠かせないものだったという面もあったことでしょう。
神戸市北区の山麓に、日本最古の民家といわれる箱木家が佇んでおります。現存するほとんどの民家が近世以降のものであるのに対し、この箱木家は格段に古く、残存する建築部材の一部はなんと中世鎌倉時代にまでさかのぼることが明らかになっております。
江戸時代にはすでにこの家は箱木千年家と呼ばれ、その古い歴史が知られていたようです。
現在の形は昭和50年代の移築で、室町時代後期の姿にほぼ復原されたようです。
建て坪は約30坪、近世以降の立派な古民家を見慣れた目には、由緒ある豪族の家の割に、随分と小じんまりした家屋のように感じます。
しかし、室町時代当時の一般農家の建て坪が平均で5坪から6坪程度と言われますので、当時としてはこれでも相当に大きな家屋だったようです。
家屋入口の佇まい。茅葺き屋根の軒は低く、軒先の高さは150センチ程度しかありません。深くかぶさる低い軒が、家屋を風雨から強く守っているようです。
開口部の少ない、塗りまわしの土壁は朝鮮半島の民家をも彷彿とさせます。
「おもて」と呼ばれる板の間の様子。
槍鉋と呼ばれる古式のかんなで仕上げられた、松の床板の表情。
縦挽きののこぎりがなかったこの時代、木材を板状に製材することは大変困難で、板の間はとても貴重なものでした。
大きな松丸太をくさびで割って、そして手斧ではつり、槍鉋にて仕上げるという工程の後、1枚の板が生み出されます。
オモテと呼ばれる板の間と、ニワと呼ばれる土間との境界に、一際目を引く、極めて古い松の柱があります。最近の放射性炭素年代測定によって、この柱材が山から伐りだされた年代は、鎌倉時代にまでさかのぼることが分かりました。700年以上前から、民家を支え続けた柱です。
気の遠くなるような長い年月の間、家屋を建て直したり改修を施したりしながらも、木材資源を大切に使い、伝えられてきた様子が偲ばれます。
屋根裏の構造。オダチと呼ばれる細く長い束柱によって棟木を支えるオダチ組の構造は、西日本の萱ぶき民家に偏ってよくみられるようです。オダチを接続する細い通し抜き板、丸太の垂木などに、当時の小屋組みの特徴が見られます。竪穴式住居の名残というべきでしょうか。
細く、横幅が縦幅よりも広い梁などに、古式の木組みを感じます。構造材料の細さも、中世の民家の特徴のようです。
近世以降に建てられた、洗練され形式化された重厚な民家を見慣れてきた私にとって、まさにカルチャーショックの連続でした。
実際に見て、そこにある何かを肌で感じるということ、そして、素晴らしいものに触れる感動が、まだ知らない世界への冒険心を次々に育ててくれるもののようです。
茅葺きの入母屋屋根。上部に煙抜き窓があります。煙抜きが入母屋民家の起源なのでしょう。
やはり竪穴式住居から続くものを感じさせます。
民家研究の上で貴重な史跡と言える箱木千年家。一度は見たいと思いつつ、なかなかその機会はありませんでした。
今回、造園設計打ち合わせのために訪ねた長崎出張の帰路、Uターンラッシュのため東京行の航空券が取れずにやむを得ず、神戸行の飛行機に乗りました。
そして宿願であった六甲山麓の箱木千年家を訪ねて、これを見ることが叶ったのです。 こうした偶然の重なりがなければ、この地を訪ねることはなかなかできなかったことでしょう。 これも何かの縁というべきでしょう。感謝です。
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謹賀新年 秩父にて 平成23年1月3日
あけましておめでとうございます。新たな1年が始まりました。これからどんなことが起きるのか、世界の多くの命にとって、平和で良き年であることを祈るばかりです。
今年の正月は、関東の山村、秩父にて迎えました。
古き良き日本の香り懐かしい秩父の山々にあこがれて、17歳の時の晩秋、秩父の山々を訪れました。初めての単独登山でした。その後、登山のために何度となくこの地を訪れてきました。
そして今年、新年のスタートに、10年以上ぶりにこの地を訪ねました。
周囲を幾重もの峰々に囲まれたこの山村、秩父往還の峠道をたどると、いたるところに祠や石碑が佇んでいます。その光景こそ、高校時代の私があこがれて登山に魅せられた風景の一つです。
豊かな山々の恵みを暮らしに活かし、山々とともに生きてきた先人方々の名残が、この地の至る所に感じられるのです。人を郷愁で包み込み、そして心癒してくれる土地の空気とというものは、自然と人との息づかいの積み重ねがつくり上げてゆくもののように感じます。
奥武蔵らしいコナラやクヌギの雑木林と、尾根沿いに残るアカマツの木立。
こんな光景も徐々に失われつつあります。
秩父の山麓では、つい最近まで雑木林が暮らしに活かされてきたようで、いまも活力ある雑木林の生態系が随所に見られます。
つい半世紀前まで、雑木林は私たちの生活と切っても切れない結びつきがありました。
雑木林を7年から10年くらいのサイクルで伐採し更新させて、そしてその伐木を薪や炭など、生活のために欠かせないエネルギー源として利用されてきました。人の活動によるそうした収奪と更新のサイクルが、雑木林を維持してきたのです。
そして、大量の落ち葉は田畑の堆肥として使用され、その過程で痩せてきた山肌には今度はアカマツが優先してきます。そしてアカマツはかつての日本民家に欠くことのできない建築資材としての役割を果たしてきました。
人手の入らなくなった雑木林は老化し、生態系的にも貧相で荒れた状態の後に、その土地の潜在自然植生と呼ばれる、究極の自然林(極相林)へと徐々に移り変わってゆきます。そして、乾燥した痩せ地に優先しがちなアカマツも徐々に消えてゆきます。
今、日本の多くの雑木林は老化して、厄介な存在に思われがちです。生態系の乱れたこうした林は、都会周辺では多くの場合、極相林に戻る前に開発されてしまうようです。
私の尊敬する、ある植物生態学者は、人手をかけなければ維持されない雑木林はニセモノの森、と言います。それも一理ありますが、すべてではありません。
良好に管理された豊かな雑木林はやはり美しく、そして人と木々との美しい循環、それも見事に安定した自然の姿の一つだからです。
そして、ススキなどの萱場も人の活動によって姿を変えた自然です。日本の民家になくてはならない萱も、生態系の一員としての人と自然との関わりが生み出す産物のようです。
奥武蔵の山並み続く秩父往還の峠道。
太古の昔より山人の暮らしが営まれてきた秩父山中には、今もその暮らしの名残があちこちに刻み込まれ、そして息づいているようです。
さて、私自身、若いつもりでいながらも、そろそろ人生の折り返し地点を過ぎたことを自覚します。1年1年が矢のごとく過ぎ去ってゆきます。
自分のやるべき道、果てしない道ですが、今年も自分を活かしてみたいと思います。自分なりの奉仕、小さなものかもしれませんが、きっとそれでよいのでしょう。
今年すべきこと、これから自分がすべきこと、それらをはるか遠く仰ぎ見る時、今を生きる充実感に心身が満たされるのを感じます。
限られた命、自分の与えられた使命を受け入れて、命の限り生きてみたいと思います。
秩父放浪の旅、まだまだ話題はいっぱいなので、連載したい気持ちです。しかし、明日は造園打ち合わせのために長崎へ、そして明後日は神戸に飛びます。秩父の報告はもしかしたらこれで終わりになるかもしれません。
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吉野山 吉水神社にて 平成22年10月31日
冷たい雨の中、蔵王堂からさらに奥へと歩き、暗くなる頃に吉水神社に入りました。山中にひっそりと佇む、とても静かな世界遺産です。
吉水神社は、明治の神仏分離令以前までは吉水院と称していました。吉水院は今からおよそ1300年前、役の行者による修験道成立の頃からの僧坊だったようです。
清らかな山中の僧坊の空気を今に伝えながらも、この地は時代の節目節目に、心ならずも時代を左右する大きな政争の中心に出てくるという、数奇な場所でもありました。
吉水神社の中、ここは日本最古の書院の間と言われます。平安時代末期の遺構のようです。
現代の日本家屋の原点がこの書院の間と言えるでしょう。
柱の四隅は大きく面取りされて、八角形に近く、竿縁天井の天井板は槍鉋(やりがんな)という古式のカンナにて仕上げられています。
大きな床の間と、床框(とこかまち)の高さ、床柱(とこばしら)として特別な柱とされる以前の床の見切り柱、違い棚、天袋、框上の上段の書院、そしてその上の掛け込み天井、いわゆる書院としての形式の原形があり、そして形式化される以前の姿がここにありました。
素朴でなぜか懐かしく、自分が日本人であることを実感します。
そしてここは、源義経が静御前とともに、兄頼朝の追捕から逃れて潜居した間ともいわれます。
義経がこの地に逃げ込んできた際、吉野の人たちは、この悲劇の若き英雄を迎え入れ、暖かくかくまったようです。
しかしながら、時代を掌握した頼朝の圧力には抗しがたく、この地に暮らす人たちを戦火から守るために、義経を追討する姿勢を見せねばならない状況に追い込まれていったようです。
こうした空気を察した義経は、吉野の人たちに迷惑をかけられないと悟り、吉野を去ります。
そして、吉野山の修験者の一人が、義経追討の姿勢を表すために、義経の家来と一騎打ちして敗れ、息絶えます。
今もその地には、吉野の里を戦火から救い、同時に義経に同情して、逃がすための犠牲となるべく一騎打ちを挑んだこの修験者の供養塔がひそかに安置されています。
時代の波が押し寄せる戦乱の世に翻弄されながらも、そんな時の渦中にあって、故郷吉野の人々の平和のために、自ら命を差し出した無名の山伏の思いが、切なく美しくしのばれます。
ここは、鎌倉幕府を倒した後、王政復古に失敗して逃れてきた後醍醐天皇の玉座です。
足利尊氏との確執により、吉野に逃れた後醍醐天皇は、この地を南朝の行宮と定めました。
ここに南北朝時代が始まったのです。
さびしい山中の小さな僧坊を仮の皇居として過ごした後醍醐天皇の数年間、その悲哀を想像するにつけて、この地を訪れる人の心に哀感の念が湧き起こることでしょう。
吉野神社の境内、京の方角に向けて侘しげな門が佇んでいました。北闕門と呼ばれます。
後醍醐天皇はいずれ京の都に凱旋する時を夢見て、都のある北面に向けて、凱旋の願いを込めてここに門をつくったようです。
武家社会のど真ん中の時代にあって、王政復古を志した後醍醐天皇の夢はこの地で潰えました。
寂しく佇む北闕門。それは無言ながらも、はかない人生の感慨を、無常感を持って語りかけてくるようです。
人は多くの場合、志半ばで潰えてゆくものなのかもしれません。南朝の遺構はそうした真実を語り続けているようです。
はかなく過ぎ去る自分の時間、そして迫りくる終わりの時、 それは誰しも平等に与えられ、そこから逃れることはできません。
例え志半ばで終わりの時を迎えても、人として生きてきた輝きを胸に、それをまっすぐに受け入れるだけの心構えを築いていきたいと思います。
覚悟してよく死ぬことを大往生と言います。「往生際が悪いぞ」と言われることのない、そんな生を全うし、そして悔いなく消えてくことができるよう、今を確かに生き抜きたいものです。
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金峯山寺蔵王権現を訪ねて 平成22年10月29日
ここは、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録された吉野山。今も霊気あふれる山岳修験道の聖地として、その自然や信仰が守られ続けています。
世界遺産、国宝の金峯山寺蔵王堂です。東大寺大仏殿に次ぐ、日本第2位の大きさを誇るこの堂宇は、神仏の香り漂う日本第一の聖地とも評される、吉野山中にその威容を見せています。
私が修験道の修行参加のためにこの地を訪ねたのは2年前のことでした。その後、山伏修行のために、年に数回ほどこの聖地を訪ねます。
日本誕生の地というべき奈良大和の大地を抜けて吉野にたどり着く、その過程がすでに修行の始まりとなります。
「日本を知るためには吉野を訪れるとよい。」よく聞かれる話の意味は、この地を訪ねるにつれて次第に理解されることでしょう。
ここは、役の行者(えんのぎょうじゃ)を開祖とする修験道発祥の地であります。修験道とは、いわゆる山伏の信仰で、自然の中に深く入り、自然を先生として尊び、自然と心を一体とするために山中で修行します。
私も縁あって2年前からこの地で山岳修行に参加させていただいております。
この蔵王堂のご本尊が、役の行者が感得した蔵王権現であります。平城京遷都1300年を機に、普段は決して見ることのできない秘仏、蔵王権現さまが公開されました。
今回、この秘仏拝見のために訪れたのです。
もちろん撮影禁止のため、蔵王権現様の写真はありません。高さ7m前後の日本最大の秘仏3体が、この蔵王堂に坐しています。
秘仏を前に、拝見する人々はお経やご真言を唱え始め、その声は絶えることがありませんでした。そして、そのありがたさに心打たれて、また一人、そしてまた一人と次々に口から自然とご真言を唱え、お経を唱え始めます。
神仏との出会い、誰しもに与えられるものでもないと思いますが、多くの人は縁があって信仰に出会う時というものがあると思います。私もしかり、やはり縁があってこの蔵王権現に導かれました。
わずか100日間の秘仏の特別公開、寸暇もないほどの忙しさの中、どうしても見なければとの思い通じて、この雨を機に、訪ねることができました。
こうしたことを蔵王権現様のお導きと感じる、こうした信仰を持てることを幸せに思います。
もともと宗教音痴の私でしたが、宗派違えど信仰心厚い恩師方々友人たちとの交流の果てに、吉野の霊山が私の心の終の棲家となりました。
縁というものは不思議なものです。20代の頃、私は禅の世界にあこがれて、禅の修行をしたいと思い続けました。
修行を請いに禅寺を訪ねたこともありますが、なぜかことどとく縁がありませんでした。
後々考えると、私のような落ち着きがなく一所にじっとしていられない人間が、座禅に身を投じても長続きしなかっただろうと思います。
もともと山登りの中で自分探しを続けてきた私にとって、山岳を回峰し、自然の中に身を投じて真理を探究し、神仏自然と一体になることを目指す修験道は、私にとってしっくりとくる信仰だったのです。
人はそれぞれの信仰があってよいし、もちろんなくてもよいと思います。しかし、信仰の本質は、大自然大宇宙の雄大さを敬うことではないかと思います。人間は傲慢になってはいけない。自分の力を越える自然を恐れ敬い、その中で自分の心を正そうとする、それが信仰の本質であるべきではないでしょうか。そして、それによって心の平安を得て、生かされていることに感謝し、その先に、世界の平和、人々の幸せのための祈りへつながっていくのでしょう。
そして一人一人の敬虔な宗教体験から起こる良き想念が、形となって世界がよくなってゆけばよいのですが。良き想念をもてるよう、私もまだまだ修業しないといけません。
自然と人間と神との共生、それが日本の風土でしか生まれえなかったであろう、修験道のよりどころなのかもしれません。
霧立ち込める吉野の山々は、まほろばの世界です。日本はこの大和の地で始まり、そしてこの地には、日本の原風景と、神仏自然と共に敬虔に生きる日本の心が今も確かに生き長らえています。
今回の吉野の旅、このブログであと2回ほど連載いたします。請うご期待。
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房総の名山 鋸山にて 平成22年10月17日
今日は造園工事の終了確認と庭の引き渡しのために今日の午後、南房総を訪ねました。
南総里見八犬伝で有名な富山のふもとには、刈り取りを終えた田んぼに毎年、この時期にコスモスを咲かせている所があります。
今日は運よく、一面に咲くコスモスに立ち会うことができました。風に揺れる優しい色合いのコスモスの花は秋の風をさらに清らかに感じさせてくれるようです。
秋桜とはよく言ったものです。
そして、引き渡しの後、日差しが西に傾く頃、房総の名山、鋸山に登り始めました。
千葉県の最高峰は、標高わずか408mの愛宕山、、、最高峰の標高としては、全国でも千葉県が最低です。そして、名山として名高い鋸山は標高329m。普通に考えれば山というより丘というべきかもしれません。
しかしながら、日が陰り始める時間帯からこうして気軽に登れる身近さという点では、千葉県の山は日本一と言えるかもしれません。
東京湾に面してそびえるこの山塊は、江戸時代より石切り場として盛んに石の切り出しが行われてきました。その石は房州石と呼ばれます。かつては塀や土留めの石積み、石段などの材料として、江戸周辺の消費地に東京湾の海運で運ばれていきました。
石の切り出しは昭和50年くらいを最後に、産地としてのその歴史が閉じられましたが、今も石切りの後の独特な雰囲気がこの山に充満しています。
かつての石切り場へ伝う道は、房州石の石畳が残ります。風化の早い凝灰岩ゆえに、風雨にさらされて柔らかい部分が溶け、様々な曲面に変形している風情は、独特で日常離れした雰囲気を醸し出しています。
かつての石切り場の跡、含水率の高い房州石の岩肌は苔むして、そして樹木はその亀裂に根を張ります。石の切り出し後に露出した岩肌を、自ら山の自然の中へと引き戻そうとしているようです。
房州石切り出し後の岩肌に彫られた百尺観音。30m以上の巨大な摩崖菩薩です。
昭和41年から6年の歳月をかけて彫られました。戦没者の供養や、当時急増していた交通事故犠牲者の供養のために彫られたようです。
なぜこの地に壮大な摩崖菩薩が彫られたのか、それは問わずともここを訪れた人には容易に納得できることのように感じます。
この不思議な空間の雰囲気に身を置くと、神聖なるものを誰もが感じ取るのではないかと思います。そして、ここにおられた観音様を岩肌の中にごく自然に見出して、それを彫り出したのでしょう。
この山の歴史は大変古く、今から1300年も前に聖武天皇の発願で、奈良時代の名僧行基菩薩によってこの地に日本寺が開山されたと伝えられます。
古くからの霊地ゆえに、石の切り出しという大規模な自然の収奪の後にもなお、その霊性がここに宿っているような、そんな不思議さを感じます。
房州石が切り出され、そして鋸状にギザギザした形で岩塊が残されています。それゆえにここは鋸山と呼ばれているようになったようです。本来この山は乾坤山といいました。鋸山という名称は近代以降の呼称のようです。
鋸歯状に残された岩塊は樹木に覆われて、その様相はまるで北宋山水画の世界を彷彿とさせられます。
下山する頃、東京湾に日が沈みかけます。人生にほっと一息がつくような、ちょっとした心の区切りとなるような、そんな一時です。
仕事の合間、わずか2時間程度の小さな旅のひとコマでした。
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