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雑木の庭つくり日記

阿蘇 熊本 「雑木の住空間」取材の旅    平成24年6月2日


 ここは、世界有数のカルデラを誇る熊本の阿蘇外輪山です。赤毛牛の放牧地として長年利用されてきた外輪山では、かつては放牧のために維持されてきた草原が、阿蘇の観光資源として今も変わることなく維持されています。
 火の国、熊本は阿蘇山を置いては語れません。

 今年10月に発売する書籍「雑木の庭空間をつくる」の取材と撮影のため、5月末に熊本を訪ねました。



 熊本の山間部の名勝 菊池渓谷です。南国とは言えども、標高差の大きい熊本では実に多様な自然樹木がみられます。
 ここでは、ケヤキ・イロハカエデ、イタヤカエデ・フサザクラなどの落葉樹の下にはカシノキ、シイノキ、モチノキ、アオキ、ホンサカキなどの常緑樹が階層状に生育し、豊かで独特の美しい自然林を構成していました。

 豊かな自然の恵み溢れる火の国熊本。ここでは自然樹木が生み出す心地さを街づくりに活かす試みがあちこちでなされています。



 ここは黒川温泉。全国的に有名なこの温泉には平日も関係なくいつも全国から観光客でにぎわいます。街ぐるみで植えられ育てられた雑木の木々が、この温泉街を非日常的な癒しの空間を作り出しています。
 もともとは山間の廃れかけた温泉街だったのが、街の人たちの努力で毎年少しずつ雑木を植えて、そして今では周囲の自然環境にすっかりと溶け込む、日本一魅力的な温泉郷が再生されたのです。
 自然豊かな山間地だからこそ、そこにある街も周囲の自然環境を街の中に引き込むことで豊かで美しく、その土地らしい生活環境が生まれます。そして、そこに癒しを求めて多くの観光客が集まるのです。まさにこれが人の心を癒す木の力と言えるでしょう。



 黒川温泉の通りは、ほぼすべてが木々のトンネルの中にあります。こうした木々はすべて、この町の人たちによって少しずつ植えられ育てられてきたのです。 
 「人を呼びたいが金がない。だから自分たちで木を植えて、美しい街にしていこう。」
地元の人のそんな想いによって、熊本の山中に全国から人が絶えない素晴らしい温泉郷が再生されたのでした。



 そしてここは阿蘇神社 一ノ宮門前町商店街です。豊かな木漏れ日の下を平日でも多くの観光客でにぎわっています。
 今では年間で30万人もの観光客が訪れるこの街も、20年前は観光客ゼロの普通の田舎のさびれた商店街だったというので驚きです。

 今から13年前、緑などなかったこの街に、商店街の一人の方が3本の桜を植えたのが、街の再生のきっかけとなりました。
 その後は毎年少しずつ、今も立ち止まることなく、隙間を見つけては木々を植え続けているのです。
 
 木々の調達と植栽を実際に依頼されたのは阿蘇の雑木の庭師、グリーンライフコガの古閑勝則氏です。古閑さんはこの依頼を受けて、地元の街への恩返しの気持ちを込めて、はじめはボランティア同然でこの事業を力強く牽引していったのでした。
 献身的で信念溢れる古閑さん達の熱意によって、商店街の人たちの意識も変化していったようです。そして、全国でも随一というべき奇跡の街並み再生が、この町の人達自身の力によってなされたのです。



 よく見ると、植栽は建物際の幅数十センチという、ほんのわずかなスペースです。



 建物際のわずかなスペースを供与し合って植栽された木々の景色がつながってゆくことで、町全体が潤い溢れる美しい姿へと変貌してゆくのです。

 「こんな田舎だから、みんな金がない。金がないけど、街のために何かできることをしようと思ったとき、木を植えようと思いついた。そして、木を植えたらなんとなく街がよく見えてきて、いいもんだなあと思った。もっと木を植えようと思って商店街のみんなに協力してもらった。木が増えたら人が集まった。」

 一人のそんな思い付きと行動が、この町を奇跡のように再生したのです。



 街を案内してくれた町会副会長の宮本さん。赤いシャツの背中に「阿蘇人」と書かれたその後姿からこの町に生きる誇りと自信が溢れだしています。

 宮本さん自ら、街の地権者の許可を乞い、そして植栽のために自ら汗してコンクリートやアスファルトを剥がし、今もなお、街の木々を増やし続けているのです。
 木を植える男、ここにもあり、私自身、震えるほどの感動を覚えます。

宮本さんは言います。

「商店街には緑が合う。しかも、列状に植えた街路樹ではなくて、こうした自然な佇まいの木々がよく似合う。
 自分たちの故郷をよくするために、ごちゃごちゃ考えていても始まらない。できることをとにかくやるだけだ。
 夢を見るならその夢をつかむ努力をしなくちゃいけない。それから、現状に満足しないことが大切だ。」

この商店街では今も毎年少しずつ、商店街の人たちの要望で木々が増え続けているのです。

「木を植えることは未来を植えること。」宮脇昭氏のそんな言葉が頭によぎります。



ここは阿蘇、内牧温泉の一角にある観光施設「はな阿蘇美」です。施設を覆い尽くす木々は3年前、この施設を委託管理することになった今のオーナー中山謙吾社長によって植えられました。
 実際に植栽設計施工されたのはもちろん、阿蘇の先進的な庭師、古閑勝則氏です。



 施設の中のドームには色とりどりのバラの花が咲き誇ります。
 もともとはバラ園と言ったイメージの強い観光施設だったのですが、中山社長は言います。

「ここは日本。美しいバラはこのドームの中だけでいい。外は阿蘇らしい自然樹木で包まれているのが当たり前。それが一番の観光資源で心地よい。」



 施設を包み込む雑木林は、中山社長がこの施設の委託管理を引き受けた後に植栽されました。
 それまでは木陰もなく、潤いもなく、これほど大規模で充実した総合的な観光施設であるにも関わらず、訪れる観光客の滞在時間は短く、経営的にも赤字が続いていたようです。
 それが、こうして森となり木陰が生まれることによって観光客の滞在時間もリピーター率も格段に増し、結果としてようやく経営的にも安定してきたと言います。

 何気ないのが木々。しかし、その恩恵は何物にも代えることができません。



 はな阿蘇美でのバーベキューに招待されます。右奥の笑顔の人が中山社長。エネルギーと情熱、そして木々への愛情にあふれています。
 「火の国の人は熱い!」中山社長とお会いしてつくづく感じます。もしかしたら阿蘇の地から日本の街が変わるかもしれません。
 
 民主主義と言いますが、自分たちの育った社会に対する愛や情熱を失った形式ばった民主主義からは何も生まれない気がします。
 ごちゃごちゃ考えて何も進まない閉そく感を打破できるのは、こうした一人一人の情熱と行動であることを改めて実感させられます。



 さて、ここはどこでしょうか。写真を見る限り、きっと美しい自然林の光景に見えることでしょう。
 実はここは、緑豊かな阿蘇の街づくりを牽引してきた㈱グリーンライフコガの樹木畑なのです。
 高木から中木、そして低木に至るまで、自然状態に近い姿で育ててゆくことによって、自然樹木本来のしなやかで美しい樹形が生まれるのです。

 自然を愛し、木々を愛し、そして生態系を知り尽くした古閑さんそのものを反映しているかのような素晴らしい樹木畑から、美しい阿蘇の街が作られ続けているのです。



 木々に包まれた古閑さんの事務所にて。
 右手前の人は、鹿児島県姶良市で、豊かで愛される地元の住環境を作るべく、雑木に包まれた分譲住宅地を提供する㈲姶良土地開発の町田社長。
 右2番目は、屋外の木々と住まいを繋げることによって心地よく人間らしい暮らしの場を提供する若き建築家、加治木文明氏です。
 左奥に立っている若者は、グリーンライフコガ5代目となる、古閑英稔君です。
彼のような若者が、これからの日本の街に貢献する美しい住環境を作る担い手となることでしょう。
 そして左手前の2人は、木々の力を活かした住環境つくりの素晴らしさを広めるべく、書籍つくりに努めるフリーの編集者高橋貞晴氏と、カメラマン鈴木善実氏です。

 今回の取材の旅、これからの造園の在り方を確信させられる旅となりました。

 温かく、なおかつ熱くご協力いただきました地元の皆様、本当にありがとうございました。


 

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
謹賀新年 京都より      平成23年1月5日

 

 祇園町、早朝の白川にゴイサギが1羽。
清らかな光景に心を洗います。 

 様々なことが重なった卯の年が明けて、また新たな1年が始まりました。
 1年間の心身の疲れと心に降り積もった垢を洗い流すべく、今年の正月も旅路でのスタートです。



 重要伝統的建築物群保存地区、町屋連なる祇園の町並み。何度訪れても、美しく完成された町屋の数々と、完璧なまでの街の美しさに見とれます。
 密集して軒を連ねる町屋の造りは、住まいのプライベートの保持と落ち着き、そして外観の美しさを見事なまでに兼ね備えています。



 密集した町屋の庭は、これぞ猫の額というべき、僅かな空間。
 そのわずか数坪の庭から、通りに大きく張り出して活かされる庭の大木がのびのびと、そしていきいきと、街の上空に枝を広げています。
 住まう人の心のゆとりと感性の賜物と言えるでしょう。狭い庭に共存する大木。そして街の風景との共存。
 祇園の町屋の美しさは、こうした住み人の感性が繋いでいくようです。



 比叡山の麓、広大な鎮守の森に囲まれて佇む日吉大社西本宮の本殿。



 日吉大社の鎮守の森。杉やモミなどの大木の下に豊かな森が形成されています。
 樹高30mから40mを越える大木を有する森は、生態的にも樹種的にも、そして森林空間の階層的にも、格段に豊かな様相を見せます。
 これほどの森が生み出されるまでには、最低限およそ150年から200年程度の時間を要すのではないかと思います。
 自立した森、豊かな命育む森は、ここまで深まらないと生まれません。



 そして凍てついた雪の中、比叡山根本中堂に向かいます。



 16年ぶりに訪れた比叡山根本中堂。
 織田信長による比叡山焼き討ちの後の再建ですが、日本仏教の中心的な最高道場であり続けたこの堂宇には、他では決して得られない重厚な何かを感じ、自己の中に大きくずっしりとかぶさってくるのを感じます。



 天台宗の祖、伝教大師最澄の言葉、山家学生式(さんげがくしょうしき)に再び出会います。

「国宝とは何ものぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名付けて国宝と為す。 
一隅を照らす、これすなわち国宝なり。」

 20代半ばの時分、熱い決意と共に、石に刻まれたこの言葉を書き写し、清書して、一人暮らしの部屋に飾ったのも、ずいぶん昔のことのように感じます。
 そして今、最澄が開いた比叡山で再びこの言葉に向き合います。

 岐路の日本、今、どのような心構えで生きてゆくべきか。
 地道に、そして確かな歩みを今年も修めていきたいと思います。

 良き年になりますように。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
撮影山行  苗場山にて     平成23年10月18日


 今週末は久々に、私の造園の師匠 金綱重治氏の写真撮影山行に同行しました。
 
 越後の名山、苗場山の山頂湿原です。標高2100mの山頂付近はすでに紅葉も終わり、1年の営みを終えて積雪の時期を迎える準備をしているようです。

「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」
 新古今和歌集の藤原定家の句がしみじみと胸に吹き抜ける、少し寂しげな高原の湿原が広がります。

 カメラを構えて何かをとらえているのは金綱師匠です。



 造園を志した息子を従えて、一瞬の自然の息吹を切り取るべく、カメラを担いで山上の湿原を歩く師匠。
 師匠と、そしていつの間にか立派な青年になった息子 潤くん。雄大な山並みを背景に、なんだかわたしにとっても感慨深い光景です。

 師匠の下で私が造園修行に励んでいた頃、潤君はサッカーに励む小学生でした。
少年だった彼が、大学卒業後、5年間の社会人経験を経て、そして今、師匠の下で造園修行に励んでいる。 いつのまにそんなに月日が過ぎたのか、、

 二人の光景を見ながら、一人私は秋の感傷に浸ります。



 天空の下、雲上の楽園に木道がめぐります。

今回は、風景写真の撮り方を師匠に教わろうと、同行したのですが、師匠がレンズ越しに捉えようとしているものは、全く私と異なっていたことに気付きます。
  性格の違いでしょうか。そして、それが作る庭の作風にそのまま表れるから、造園の仕事は面白いものです。
 自然そのものをまるで琳派絵画のごとく、その存在の美をその一瞬のうちに、最良の佇まいで捉えようとする師匠に対し、私の写真の構図はなんともいい加減なものだなあと気付きます。
 寂しがりやの私は人の気配香る、少し中途半端でのどかな自然風景が好きなのかもしれません。



 手前、男の渋み醸し出す素敵なおじさん(失礼しました)は、作庭処落合、東京都高尾の落合さんです。
 私にとって落合さんと初めてのご一緒山行です。



 穏やかな日差しの下、師匠恒例の野点の茶会が始まりました。



 師匠と共にどこに出かけても、師匠の家をいつ訪ねても、いつも師匠は私たちに一服のお茶をふるまってくれます。
秋の苗場山行、一期一会の茶会です。



 一人一人に丁寧にお茶を点てる私の師匠。
カメラを構える姿もさることながら、こうして山の中でお茶を点てる姿も、これほど似合う人はいないと感じます。



 それにしても落合さんの自然体の表情もまた、和みます。落合さんの隣の若者は金綱造園5年目、なかなかの男です。造園修行も5年目となるとさすがに心身の芯が備わってくるようです。

 温かな日差しの下、師匠の点てるお茶の時間がこうしてゆっくりと流れていきます。
 この日この時この時間、そしてこの人たち、一期一会の時間が過ぎていきます。



 湿原の水中に浮かぶのは何と杉苔です。庭では良好な生育条件作りに苦労する杉苔が、こんな高山の湿原、浸水する環境に青々と広がる光景に打たれます。



 麓の風景。杉林の向こう、霧の中に紅葉盛りの木々が浮かんでいました。



 金綱師匠の視点をまねて撮影してみました。色鮮やかな紅葉を引き立てているのは背景の杉の濃い緑。そして落葉樹の幹の線。
 
 それまでの自分と全く違う視点で、木々にレンズを向けます。
 新たな発見がたくさんあった山旅となりました。


投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
南八ヶ岳縦走   平成23年8月14日

 今年の夏休みも例年のごとく、ヒートアイランドと化した灼熱の下界を離れて高山に向かいます。
 今年は23年ぶりに南八ヶ岳に入山、主脈縦走を終えて昨日、帰宅しました。




 フォッサマグナのど真ん中に位置する八ヶ岳連峰、ここが文字通り、日本列島を東西に分断していると言えるでしょう。
 今回、南北八ヶ岳連峰のちょうど真ん中あたり、佐久平側の山麓、稲子湯から入山しました。
苔むした森の中を登り始めます。



 登り始めて約2時間、ミドリ池に到着です。八ヶ岳連峰の北部には、こうした湖沼が点在し、潤いのある清らかで懐深い静かな森が広がっています。
 周囲の森はシラビソを主木に、コメツガ、カラマツ、八ヶ岳トウヒなどの針葉樹とダケカンバを中心とした高山性の落葉広葉樹が混在し、厳しい高地の自然の中で天然更新を繰り返す深い森が形成されています。

 山行の初日はミドリ池から1時間程登ったところに位置する秘湯、本沢温泉に宿泊です。



 翌朝、夜も明けぬうちに歩き始めます。雲の動きが非常に早く、朝焼けの真っ赤な色合いに、山上の天候を心配しながらの出立でした。激しい風音と上空の雲の動きが天候の不安感を煽ります。
 それでも、夜明けの空に浮かび上がる木々や山並みのシルエットは美しく、こうして今年の夏も山の奥深くに分け入ることができた喜びに浸ります。



 八ヶ岳南部核心部のピーク、硫黄岳山頂。深い雲と強風の中、視界は数十メートルと見渡せません。背負ったザックごと吹き飛ばされそうな強風です。これが地上であれば猛烈な台風並みの強風ですが、高山ではこうした日も珍しくはありません。



 硫黄岳から主脈縦走路を南下します。強風の中、移りゆく雲が時たま薄くなっては光り輝きます。その瞬間、目の前に現れる岩の光景に圧倒される程の神秘的な情景を感じます。



 この日は1日中強風の中、猛烈な勢いで雲が行き交う1日となりました。それでも、稜線伝いに山を歩き続けます。
 時折雲の合間に視界が開けて山並みが見える瞬間があります。



 主峰赤岳山頂へ向かうアプローチも異様な雲が猛烈な速さで行き交います。突風が断続的に叩きつけて、立っているのもやっとです。
 こういう日は、岩かげで小休止を取りながら、とにかく目的地に向けて歩き続ける以外にありません。山頂についても一面のガスで何も見えないのですから。
 こんな時もあります。いつも晴天に恵まれるばかりではありません。



 そんな悪条件の山行の中でも、足元の高山植物が疲れを癒してくれます。高山の草花の最盛期こそ過ぎましたが、コマクサの大群落が稜線上の至る所で見られました。

 この日は八ヶ岳南部の雄峰、権現岳山頂直下の小屋で一泊です。



 そして快晴の翌朝、夜明け前に小屋を後にしてご来光を拝みに稜線に向かいます。
 下界は猛暑日が続いているようですが、標高2700mの朝は震えるほど寒く、セーターにヤッケを着込んで小屋を出ます。




 夜明け直前の権現岳山頂と、遠くに富士山が浮かんでいます。神秘的な空の色は刻々と変化し、おごそかなこの日のご来光を息をひそめて待っているようです。



 そして北側には、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳と、八ヶ岳主脈の山々が連なります。昨日歩いてきたのがこの峰々です。



 雲海の上に光が差し込みました。ご来光の瞬間です。おごそかな感動、静かな感動、高山でしか味わうことのできない荘厳な時間です。
 両手を合わせてご来光を拝み、心静かに天と地と向き合います。そして、山上の清らかな空気の中、静かに心を洗います。体の芯から新たな熱いエネルギーが湧き上がってくるのを感じます。

 登山を始めたのは高校1年生の夏ですので、あれから間もなく四半世紀を迎えます。重たいザックを背負ってひたすら登り続け、歩き続けたその意味は、山の空気が心身を清らかに洗い流し、新たな力を授けてくれるから、と言えるかもしれません。



 ご来光を拝み、そしてまた小屋に戻ります。小屋で温かな朝食を頂くのです。
 白い湯気の上がる味噌汁、ホッカホカのご飯、山小屋でいただくご飯はいつもとてもおいしく、食べる幸せとありがたさを実感するのです。



 気さくで話好きな小屋番のお兄さん。楽しい時間をありがとうございました。
 手にしている写真は、私の造園の師匠、金綱重治氏が撮影した冬の八ヶ岳の写真です。
 今年の5月に権現小屋を訪ねた師匠がこの写真を寄贈し、それが飾られていたのでした。
 奥深い山中の小屋で師匠にばったりと出会ったような想いです。
  私の師匠金綱氏は造園家としても一流ながら、ネイチャー写真家としても一流の腕前で、仕事をしていない時はいつも、どこかしらの山を歩いて写真を撮るという生活を今も続けているのです。
 師匠の下での私の造園修業時代、撮影山行に付き合って重たいカメラ機材を担がされて山に登った若き日のことを思い出しました。
 写真を見ながら、師匠の思い出話を小屋番のお兄さんに聞かせます。

「造園に必要な素養は、自然が好きかどうか、ただそれだけだ。庭を見るより山に行け。自然から直接学びとれ。」
 そんな師匠の考えに共感し、そして私は忠実にそれを実行してきました。



そして、岩峰 権現岳の山頂に到着です。360度、中部山岳の山々を一望できる大パノラマ。「来てよかった。」 この山行の全ての苦労が報われる瞬間です。



 権現岳という名称は、おそらくかつての山岳修験道の先達が名付けたのでしょう。
 長い間、日本の高山は神々の領域であり、そしてそこは修験行者による修行の場であり続けました。この険しい岩山、八ヶ岳連峰も修験者の聖地のひとつでした。

 権現岳山頂の岩、南側の祠越しに見ると、不動明王が正面に立っているように見えます。
ユーモラスな不動明王が見えます。



 ところが、この岩を下の登山道から見上げると、その岩は地上の街を見下ろす観音様の横顔が見えるのです。優しげに慈悲深い表情で麓の街を遠く見守ってくれていました。



そして、写真右の岩は、観音様に礼拝している姿に見えます。
 山上の奇跡、ありがたい権現様に出会いました。この山がなぜ権現岳と名付けられたのか、ここを訪れてそのありがたい時間を感じることで納得させられます。



 権現岳を越えて南斜面を下ってゆきます。冬にはシベリア直通の寒風が吹き付ける八ヶ岳斜面では、至る所に白骨化した針葉樹の枯死木が見られます。そしてその下に、コメツガやシラビソなどの針葉の幼木が集団で生育し、そして毎年少しづつ伸長していきます。
 厳しい高山の環境では、突出して大きくなった木々に冬の凍風がダイレクトに吹き込み、幹や葉から水分を奪い、そして枯らしていきます。
 高山のこうした厳しい環境が木々の若返りを促進し、高山樹木の多様性を保持してきたと言えるでしょう。
 亜寒帯性の針葉樹も、たった一本だけではこの厳しい環境の中では生きていけないのです。突出して大きくなった木々はやがて順番に枯れていきますが、それらが強風を一身に受けて、その下の幼樹の集団を守っているのです。
 標高2500mの森林限界付近では、木々がその命を繋いでゆくための闘いが繰り広げられているようです。



 そして、更に下り、標高2300m前後まで降りると、これらの針葉樹林の樹冠は徐々に高さを増して、堂々たる高山の森の様相を見せてくれるようになります。
 それでも平地に比べれば厳しい環境ゆえ、枯死した大木の幹が点在しています。何万年もの間、この森はこうした生々流転を繰り返しながら、高山の森を維持してきたことでしょう。



 そして、標高1500m付近まで下ってくると、ようやく私にとってなじみ深い、落葉広葉樹の森が現れます。ここまでくると、かつての神々の世界から人のぬくもり感じる世界へと舞い戻ってきたことを感じます。



 森を抜けて、清里高原の牧場を横切ります。草原の向こうに、八ヶ岳の山並みが望めます。ついさっきまで、あの山上の稜線を歩いていたのです。



 山旅の終わりに、清里の父と言われるポール・ラッシュの晩年の住まいを訪ねました。
山並みの向こうに富士山を眺望する清里高原の森の中、崇高な理想を掲げて戦後日本の山村の人々の自立的な暮らしを指導し、農村に民主主義を定着させるべく、その生涯を清里の地に捧げた偉大なアメリカ人、ポール・ラッシュの住まいは、彼の死後30年以上たった今もひっそりと残されています。

 彼は、アメリカ人宣教師として関東大震災直後、日本を訪れました。そして立教大学の教授などを務めつつ、日本人の指導者育成に尽力し、当時は貧しい寒村だった八ヶ岳山麓の清里の地に近代農業実験施設や近代日本を担う次期指導者となる青年たちの教育施設つくりに力を注ぎました。
 そして戦争が勃発し、日本在住の宣教師たちがアメリカへ引き上げた後も、彼は日本に残り、この国の人たちと共に生きることを決意します。
 しかし、その直後、日米開戦と同時に彼は、敵性外国人として捕えられ、アメリカへ強制送還されます。
 彼はアメリカへ帰国後、陸軍に志願し、将校となります。日本と戦うためではなく、軍国主義の奴隷とされた日本人同胞を開放し、救うためという信念がありました。
 彼の生き方は常に、民族の違いを越えた世界人類への奉仕の心に基づいたものでありました。
 強制送還された後、アメリカ陸軍将校となった彼のスピーチに、その全人類的な彼の深い愛情と卓越した視野が感じられます。

「もし我々の文明と人間性が将来の安全と安定を守ろうとするなら、日本国民を奴隷化した日本の軍事体制を完全に打ち負かさねばなりません。私ははっきりと理解しています。
 私たちがまずしなければならないことは、この戦争を目的を持って戦い、持続しうるものを確実に追求できるようにすることです。そうすれば、平和はおのずと到来するでしょう。
 民族主義的孤立主義に変わって、国際的な思いやりが力を持つでしょう。
 私たちは弱きものに対して責任があるということが、至る所でこれまで以上に明らかになるでしょう。そうすれば、世界に法と秩序と正義がもたらされるでしょう。
 我々アメリカ人が国内の各地で協力し合うことを学んだように、全ての階級、すべての民族が協力し合う世界を準備することが、キリスト教の教えに従う私たちの人間としての責務になります。」 (1942年、ポールラッシュ)

 彼は戦後、GHQの将校として日本を再び訪れます。そして、その後、草の根レベルでの近代日本の民主化、戦後の近代農業の普及、日本を再生する指導者の育成のために私財を投げ打ち、募金を募り、そしてこの清里の地に彼の教育実践施設を育て上げていき、そして清里の農民と共に生き、この地で晩年までの生涯を捧げました。



 
Do Your  Best, And It must be first class.
あまりにも有名なポールラッシュの名言です。ポールラッシュ記念館の入り口にこの言葉が紹介されています。

 実際にはこの言葉はポールラッシュのものではなく、日本のために聖路加国際病院を開設したトイスラー博士が、清里村での活動に心を燃やす若き日のポールラッシュに語った言葉の一節なのでした。
 ポールラッシュの人生の師であったトイスラー博士は言いました。

「ラッシュよ、お前がもしキリストの名のもとに何かをしようと思ったら、一流のものを築け。二流のものは絶対だめだ。
 一流でなければ人々がモデルとして模倣し、受け入れることができないからだ。
 それに一流の仕事ができないのなら、何のために日本に来たか、人生のすべてが空しくなってしまうではないか。」

「最善を尽くして一流たるべし。」この言葉はポールラッシュの生涯のモットーとなったようです。

 人類愛に基づき、戦後の日本で価値ある仕事を成し遂げたポールラッシュの生涯を感じ、勇気と希望とエネルギーをもらうことができました。
 さて、私も今の時代に価値ある仕事を成し遂げるべく、力を尽くそうと。

 さて、足踏みしている場合ではありません。私には、私に与えられた大切な仕事があります。その仕事は私自身のためだけではなく、社会のため、今の時代のために私がなすべき仕事です。
 

 旅は、自分の人生の指針を思い出させてくれます。

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
甲斐の国の自然と民家を訪ねて  平成23年5月1日    
 日々、緑を扱う仕事をしていながらも、久しく山歩きから遠ざかっていると、「山が呼ぶ」声を本当に実感します。
 居ても立っても居られないほど、山が「こっちに来い」と呼ぶ声が聞こえるのです。

 当社の今年の連休は、本日までの3日間のみとなります。
 わずかな休暇を用いて、今年は甲斐の国、塩山周辺を歩きに行きました。

 

 ここは、奥秩父の深い森を水源とする笛吹川源流部、西沢渓谷です。
 花崗岩の岩間からの湧水を集めて流れる渓流の清水はエメラルドグリーンの輝きを放ちます。



 標高1100m超のこの渓谷沿いには、ミズナラやイヌブナ、オノオレカンバやサワグルミ、バッコヤナギやホソエカエデなどの落葉樹の中、コメツガやシラビソ、そしてサワラなどの常緑針葉樹が混在する明るく変化ある林相が見られます。
 左側の常緑樹は、広葉樹としては原始的な特徴を有するヤマグルマ、そして下層の常緑樹は奥秩父の山々に広く分布するシャクナゲです。



 豊富な源流が勢いよく流れ落ちる西沢渓谷には、見ごたえのある美しく雄大な滝がたくさん見られます。
 そのなかでも最も有名な滝がこの、七ツ釜五段の滝です。



 エメラルドグリーンに輝く水釜に白くしぶきを上げて落ちる滝の表情が幻想的な美しさを見せていました。



 山の中に、トロッコの軌道が所々に残ります。西沢渓谷周辺の山々に今も残る軌道は、昭和30年代まで、木材搬出やこの近くの山で採掘された珪石(ガラスなどの原料)搬出のためなどに利用されていたようです。
 それがやがて、道路が整備されて自動車輸送に変わり、昭和43年、トロッコ軌道としての役割に終止符が打たれました。



 往時を偲ぶために山中に残された、木材を積んだトロッコ。山中への上りはトロッコ2台ずつ馬で引き上げ、そして荷物を積んでの下りは自然勾配をブレーキだけで下ろしていきます。
 山中の急斜面での作業のため、事故や災害も日常茶飯事だったようです。
 このトロッコ軌道跡を辿って、この日は山を降りました。



 そして翌日、塩山の霊峰、乾徳山に登るべく、大平高原の牧場跡を出立します。カラマツの木立と草原の風景に、往時の楽園を想像させられます。



 標高2000m近くまで登ると、奥秩父独特の苔むした暗く深い森の中に入り込みます。



 厳しい高山の森は、所々で立ち枯れの木々が集団で見られます。
 縞枯れ現象と言って、帯状に木々が枯れてゆき、そしてそのあとにシラカバやダケカンバ、ミズナラのような、成長が早く、日光の届くところでしか生育できない落葉高木が一斉に育ちます。
 厳しい環境ゆえの縞枯れ現象が、高山の森の多様性を生み出していると言えるかもしれません。
 これは、立ち枯れたまま年月を経て、白骨のようになったコメツガの枯れ木です。下に大きな岩があるため、それを抱くように太く根を伸ばしていました。
 どこまでが幹でどこからが根なのか、分かりません。流れるような曲線がとても美しく、与えられた環境で強く生き抜こうとする生命の神秘を感じます。



 乾徳山山頂にて。険しい岩山です。黄砂の影響で遠くが霞んで見えますが、360度の大パノラマが展開します。
 かつては修験道の行者修行の山で、女人禁制の時代もあったようです。人を寄せ付けない岩山の神々しさを畏れ敬い、そこに神を感じたかつての日本人の美しい心をはるか仰ぎ見る気がします。



 下山して、麓の古民家を訪ねて廻ります。ここは塩山駅の近く、旧高野邸(国指定重要文化財)です。江戸時代、薬用植物である甘草(カンゾウ)を栽培して幕府に収めていたことから、甘草屋敷と呼ばれます。
 この古民家は、甲州地方独自の養蚕農家の特徴が顕著に見られます。
切妻屋根の南面中央部に、2段に突き上げたような屋根が見られます。これは、屋根裏のカイコ部屋への、採光のための窓を配するために、このような形状となったようです。
 お米のとれない甲州の山村では、カイコ飼育が大切な収入源でした。
 地元の人の話では、当時カイコは「おカイコさん」とか「おカイコさま」とか呼んで、とても大切に育てられていたそうです。
 山村の暮らしを支える養蚕が、その地域の民家の姿をつくり上げてきたというこが感じられます。



甘草屋敷の妻側。こちらにも上部にカイコ部屋の明かり取りのための引き戸の窓が見られます。そして、大きな切妻壁の棟持ち柱(むなもちばしら)や、貫板(ぬきいた)を装飾的に壁面に見せる美しい模様が、この地域の民家の大きな特徴となります。



 甘草屋敷の敷地に残るこの小屋は、地実棚(じみだな)と言います。柿や大根などを干すための棚で、南側の屋根を浅くして、棚に日差しが取り込めるように工夫されています。
 塩山周辺の切妻民家には必ずと言ってよいほど、この地実棚があったと言います。
 これもこの土地の特徴的な小屋の形態です。

 

 切妻屋根にカイコ部屋の明かり取りとなる突き上げ屋根の窓、そして妻側の窓といったこの地域独特の建物は、この塩山周辺にいまもなお点在しています。
 これは塩山の北、乾徳山山麓の徳和集落に残る旧坂本邸です。



突き上げ屋根の代わりに棟違いの屋根を設けた意匠も見られます。



棟違い屋根の切妻側にそれぞれ屋根裏部屋の明かり取り窓を設けたものもあります。



 これも徳和集落の民家ですが、屋根裏のカイコ部屋ではなく、人の居住スペースとしての2階窓です。明かりとりとしての越し屋根が乗り、そして二階外壁には、見せ貫(切妻側の壁に意匠として水平の貫板を見せる)の意匠が見られます。
 もともとこの家は養蚕農家ではないのでしょうが、それでもなお、地域の建築文化として、養蚕民家の特徴が、家屋外観の意匠の中に受け継がれているようです。
 これが故郷の景色、地域の風景というものでしょう。地域の風景はその土地の暮らしと自然と歴史と文化が育みます。
 
 今のハウスメーカーの住宅は、こうした地域文化に関係なく、全国どこでも、その会社の製品としての家屋を、まるで金太郎飴のごとく量産しています。
 商品シェアとしての売り上げ競争の中で量産される住まい、これで果たして、いつまで美しい日本の風景が残るでしょうか。
 私たちが子孫に伝えてゆくべき大切なものが、合理化と工業化一辺倒の経済至上主義の中で踏みつぶされてゆくことに歯止めをかけねばなりません。



これは、甲斐の国、武田信玄のお墓がある、恵林寺の本堂、切妻側の意匠です。やはり、この土地独特の養蚕農家造りの装飾化を感じさせられます。



 旅の締めくくりは、檜皮葺き屋根が美しい大善寺です。葡萄の里、勝沼です。
 鎌倉時代前半に建立されたこの薬師堂は、関東最古の遺構として、国宝に指定されています。
 開山の行基菩薩がこの地で修行していた際、夢の中に右手に葡萄を持った薬師如来が現れたと伝えられます。
 夢の中に現れた薬師如来のお姿を刻んで安置し、このお寺を開山したのです。そして当時は貧しい山村の人々に葡萄の栽培を教えたのが、甲州葡萄の始まりと言われます。

 つまり、ここが甲州葡萄発祥の地ということになります。昔話の真偽を詮索するのはナンセンスです。とにかく、仏教伝来とともに大陸から伝わった葡萄が、何かのご縁があってこの土地に伝わり、、そして今もこの地の主要な産物であり続けているのです。

 この旅の感動、お話したいことはまだまだ山ほどありますが、明日からまたノンストップの仕事のため、この辺にしておきます。



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
       
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