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雑木の庭つくり日記

本州最西端 山口県を訪ねて      平成26年3月13日

 日々、ご紹介したい話題が次々に湧き上がりつつも、あわただしい日々に追われてブログ更新がなかなか進まず、またまた先の更新から2週間が経過してしまいました。

 2週間前の週末、造園設計打ち合わせのため山口県を訪れました。
これまであまりなじみのなかった土地での造園依頼は、新たな土地との出会いの機会であり、人の営み、歴史、自然環境に触れることで様々な新しい発見があります。
 新たな土地で庭を作る際、その土地の歴史風土を感じ取る作業が必ず必要になります。暮らしの環境としての庭は風土と切り離しては考えることができないからです。

 今回も打ち合わせの後、わずか1日のタイトなスケジュールで、県内を駆け巡ります。

 
 
 東洋屈指の大鍾乳洞、秋芳洞を水源とする川のほとりに自生するナンテン。石灰を含んだ乳白色の流れに点々と赤い実を映しています。
 丈夫なナンテンの木は庭で扱いやすく、美しく、私ももちろんよく用いますが、こうして自生している状態を見るのは初めてかもしれません。石灰岩基岩を好む性質から、カルスト台地の地下から流れる流れのほとりが居心地がよいのでしょう。



 本来は中国東南アジア原産と推測されるナンテンが、この県内には他の優先種に負けることなく自生するに適する風土条件があるせいか、日本のナンテン自生地としては山口県萩市川上のユズ及びナンテン自生地が有名で、国の天然記念物に指定されています。

 木々というものは、風土が持つ潜在的な条件のもとで、まったく違った成長や姿を見せます。
金閣寺夕桂亭には有名なナンテンの床柱がありますが、床柱になるほどの太さのナンテンはどこで育ったのか、川のほとりに自生して風景に溶け込むナンテンを見て、様々想いが馳せていきます。



 東洋最大の石灰岩カルスト台地秋吉台の下、数億年の年月をかけて形成された秋芳洞。
 大地にしみ込んだ雨水に含まれる酸によって少しずつ石灰岩を溶けてゆき、様々に神秘的な光景を洞内に作り出しています。
 カルスト台地では雨水は地中深く浸透して地表流にならず、浸み込んだ水がこうしてその地中に空洞を作ります。



 洞内から流れる川岸、亜熱帯林を彷彿とさせる苔むして鬱蒼とした多様な森の様子に温暖で雨量の多く湿気のこもりやすい土地の特性を感じ、これほどの鍾乳洞が形成された理由も素直にうなずける気がします。
 海底に堆積した生物の遺体が隆起して生じたカルスト台地は石灰が作る空洞せいか、保水性が悪く台地上では森が育ちにくく草原化しやすいのに対し、カルストの下の鍾乳洞から豊富な水が湧き出し、その周囲に豊かで樹種に富む生気あふれる森が広がる様子に、「風の谷のナウシカ」に登場する、腐海の底の浄化された空間が目に浮かび、大地の声が聞こえてくるようです。



 日本海岸のマツ林。中国山地には松林の名残が今も多く、その最西端の山口県では海岸から内陸部まで広くマツ林が分布しています。
 森を伐採して放置すると、関東ではコナラクヌギの雑木林となり、関西以西では松林になると言いますが、遠い昔から用材としての木材利用に加え、たたら製鉄のために過酷に森を利用し続けてきた歴史が土地を痩せさせていき、松林が優先しやすい潜在的な条件を作ってきたのでしょう。



 萩城下町、武家屋敷の庭の巨大なアカマツ。アカマツは山口県の県木に指定されています。



 武家屋敷の梁組。梁だけでなく屋根を支える小屋束柱にもマツ材のなぐり丸太が用いられている光景は関東の小屋組みを見慣れている目に新鮮に映ります。
 数十年前まで、日本の主要な建築構造材だったこうしたマツの大径材も、今では古民家でしか見ることができなくなりました。
 日本の山が生活資源として利用されることなく放置されるにしたがって、まっさきに減少してゆく運命にあるのがマツなのでしょう。



 県内陸部の放置林。枯れた立木はマツです。松枯れは自然遷移過程で、人が森を使わなくなって放置されれば多くの場所で松の優先性は失われてゆきます。
 人の暮らしと共に森があった時代、その暮らし方が作った松林の光景は当然姿を変えていき、今後は海岸や痩せた岩場など、本来マツが優先しやすい一部の場所にのみ残ってゆくことでしょう。



 ちなみにこれは、今施工中の庭に建築中の農具小屋の小屋組みです。材料はすべて50年前に立てられ、最近解体された納屋の古材を用いています。
 桁、棟の丸太はもちろんマツ材。粘りが強く数百年以上も変わることのない耐久性を誇るこうした材も、昔は日本中どこでも周囲の山から簡単に伐りだして建築用材として用いられてきましたが、そんな日本建築の長い歴史もここ数十年で、消えゆくマツ林と共にあっという間に終焉を迎えました。

 今、次々と解体される古民家の材は宝の山です。古材を活かしてかつての建築文化を今に伝えるのも造園の中に託された使命の一つかもしれません。



 日本海に張り出した半島の先、北長門海岸を訪れます。対馬海流の影響を受けて温暖ながらも、常時湿気を含んだ潮風にさらされる海岸線の岩壁はトベラやシャリンバイがじゅうたんのように斜面を覆います。



 海岸線から一歩内陸に入ると、一面に広がる笠山のヤブツバキ林の光景。
 温暖多湿な気候と溶岩の基岩がこの地にヤブツバキを優先させてきたようです。



 それでも今のような純林に近いヤブツバキ林の風景のなったのはごく最近のことで、40年前は藪山だったと言います。
 ここを訪れた植物学者がこの地に優先的に自生するヤブツバキに着目して、ツバキによる観光地化を提言したのが今の風景の始まりだったのです。
 対馬暖流の影響を受けて、椿林の中にはコウライタチバナやタチバナ、クスドイゲ、チシャノキ、ハマセンダン、カゴノキなど、希少種を含む亜熱帯性の樹種が自生しているのもこの地の特殊な条件を想わせます。



暖地の海岸で普通に見られるこのハマビワも、私の地元千葉では全く見られません。



 椿林に点在する太い幹はシロダモの巨木。シロダモは関東で普通に見られますが、これほどの巨木の景色は見慣れず、これがシロダモだと気付くまでに時間を要しました。
 同じ樹種でも風土によって見せる表情や雰囲気は全く違う。木々を扱う私たちの仕事では、「適地に適木」というのはもちろん基本なのですが、同じ木でありながら環境風土によって顕れる性質の違いに触れると、驚きと同時にわが身の浅学を悟ります。



 カラスザンショウの大木。私の地元千葉の若い山にも多いのですが、ここまで太くなるまでには樹種が入れ替わります。カラスザンショウとはそういうものだという思い込みも、自生して立派な大木として森の主木構成樹種となっている様子に溶け落ちていきます。



 板根がそのまま這い上がって束となって幹が形成されたようなムクノキの表情。



森の主のようなホルトノキの巨木からは、沖縄の深い森の中のガジュマルの大木のような精気を感じます。



 丈夫な下草として庭によく用いるノシラン。これも関東の山では見かけず、自生している姿を見たのは初めてかもしれません。
 いのちにはふるさとがあり、植物を知るにはふるさとで見せる表情からその木の命を感じることが大切だと改めて気づかされます。



 萩城下町の崩れかけた土塀。どれほどの年月が経過したことでしょう。壁が役目を終えてその土地に土にかえっていきます。
 私もそんな造園、そんな生き方をしていきたいと、改めて思います。
たった1日の旅、旅は人生を豊かにしてくれます。






投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
謹賀新年 筑波山より         平成26年1月6日


 ブログを訪ねてくださる皆様、あけましておめでとうございます。

 今年1年が平和で穏やかな年でありますように。そして将来の日本や地球の未来への希望が見える年となるよう、惜しまず努めていけますように。

 写真は昨日の筑波女体山山頂です。
 関東平野を一望する常陸の国の独立峰、筑波山は900mに満たない低山でありながら、その尊崇の深さと歴史、広大な関東平野の人々の営みとのかかわりの深さゆえ、標高1000m未満の山の中で唯一、日本百名山に名を連ねています。

 関東平野に人が住み始めたころから祀られているとも言われる筑波神社のご神体であるがゆえに、今に至るまで守り繋がれてきた貴重な自然は、人の暮らしとかかわりの深い低山としては類例を見ないほど、多様で豊かな植生が今も残され、数万年単位の関東平野の木々の変遷を知る上での大変貴重な森が、先史時代から現代にいたるまで連綿と続くつくば信仰によって守られてきました。

 筑波山系の植物種について、茨城県自然博物館の調査によれば1000種類以上の植物が記録されていると言いますが、一つの低山でこれほど多様な植生を有する山は、関東のみならず全国でもほとんど残っていないのではないでしょうか。



 ご神体の山頂に至る山道には点々と祠が祀られます。かつての山岳信仰のそれと同様、祠はエネルギーを放つ奇岩巨石の傍らに祀られます。

 はるか3億年前の地殻の大しゅう曲運動によって生まれた筑波山塊にはむき出しの花崗岩巨岩奇岩がまるで地球の化身のように力強い姿を見せます。
 地球の奥底から湧き出すような岩の力に尊崇の念を持ち、そして敬い祀り、自然の一部である人間の分をわきまえて暮らしてきたかつての日本。



 山頂付近のブナの大木。
 筑波山では標高600mあたりを過ぎるとちらほらとブナが混ざりはじめ、標高700m付近を過ぎると、ブナが大木となって林冠を優先する落葉広葉樹林となります。
 関東南部ではもっとも標高の低い山域に優先するブナ林だと思いますが、きっと1万年以上前の氷河期には関東平野一面にブナの森が広がっていたかもしれません。
 当時のブナの森は、その後の気温上昇によって北方、あるいは高山に追いやられ、ここ筑波山では山頂部に避難したブナたちの子孫がこうして生き残り、隔離された形で連綿とその森を繋いできたのでしょう。



 筑波山のブナは、日本海側や冷温帯気候域のブナ林とは明らかに雰囲気が違います。実際に葉は小さく、遺伝的にはやはり暖温帯気候域の紀伊半島大台ケ原のブナに近いことが分かってきました。
 1万年の昔からゆっくりと進んだ温暖化の中で、つくばのブナは孤立したこの地域の気候変動に対し、ゆっくりと遺伝的に適応させてゆくことで生き延びてきたのでしょう。
 壮大な時間を生き続ける木々の命を目の前にして、心打たれる思いです。

 急速に進む現代の温暖化の中、ここ30年間の記録だけでもブナの衰退、生育範囲の縮小が分かってきました。
 下の方から急速に常緑広葉樹林へと置き換わっているのです。今の温暖化のスピードは、木々の適応できるスピードをはるかに超えていることは間違いないようです。

 平均気温が4度上昇すると、日本の9割のブナ林が消失するという予測もありますが、私たちも木々も、これまでの数万年単位のレベルでの気候変動を、今後数十年で経験することになるかもしれません。それが何をもたらすかは実例など全くなく、誰にも予測はできないことでしょう。

 私たち人間の暮らしの不始末だから仕方ないとは言えども、木々と寄り添いながらこれからの時代を生きていこうと思います。
 
 とにかく、今、冬枯れの低山の美しさ、葉を落とした枝葉が陽光を反射して輝く木々の美しさを心一杯吸い込みながら、歩きます。



 ブナ林の下、標高400~600m辺りに広がるのはアカガシの巨木が優先する太古の香り漂う常緑広葉樹林です。
 アカガシも関東平野の平地にも、ある程度まとまった社寺林などの深い森に点在するように残っていますが、これほど優先するアカガシの森はなかなか見られません。
 


 手前がモミ、奥がアカガシです。林冠の多くをアカガシとモミが優先する針広混交林がブナ林のすぐ下まで迫り、標高700m付近できっぱりと、下が常緑樹林、上が落葉樹林と別れてせめぎ合っています。
 関東南部の低山域の極相林として、常緑広葉樹林にモミやツガなどの針葉樹が混交するようですが、大気汚染や温暖化の影響を受けやすいこれらの針葉樹は至る地域で衰退を見かけます。
 モミなどの針葉樹が常緑広葉樹林の中に混交することで、森の階層が上部に一段階増える分、はるかに森の生態的な豊かさが増すのですが、この光景も今後ますます貴重なものとなってゆくことでしょう。
 そう思いながら、この深く豊かな森を歩くにつれて、今の景色を余すことなく心に焼き付けようという想いに駆られます。



 それにしても立派なアカガシの巨木がここにはふつうにみられます。
 カシの仲間では関東の平野部ではシラカシが一般的に見られますが、そのなかでアカガシの混在はその森の歴史と植生的な豊かさの指標にもなります。
 そのアカガシがこれほどまでに優先する貴重な森がここに広がっています。



 筑波山は関東平野の名峰です。今年の山歩きはここから始まりました。
 そして、霊山を歩き、大地の感触を確かめるように呼吸を合わせて大地を踏みしめます。

 明日から仕事始めです。
 これから始まる一つ一つの仕事に一期一会の気持ちで誠心誠意取り組み、与えられたご縁を大切にしながら生きていこうと、山に誓います。

 今年もよろしくお願いいたします。
 



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
ボルネオの山地多雨林       平成25年10月16日



 ここはマレーシアボルネオ島北部サバ州、標高4000mを超えるキナバル岩峰群。
 10日ほど前、この山を訪れました。キナバル山域には6000種以上もの植物の他、生育する哺乳類が100種類以上が確認され、世界有数の生物多様性に富む
山地熱帯林が広がっています。

 標高4095mのキナバル山はマレーシア最高峰で、山麓から山頂まで、非常に変化に富む自然の様相を見ることができます。



 どんぐりを落とすオークの木が高木層に多い標高1500mから2000m辺りまでの森を見上げる。
 低地多雨林では、樹高100mものフタバガキ科樹木を主体とする超高木が森の林冠に突出するのが熱帯雨林の特徴のように伝えられることが多いのですが、標高1500m以上の山地多雨林となると超高木の突出は見られず、ブナ科のカシ類が高木層を占め、その樹高は大きなものでも40m程度、その下に幾層もの樹木が階層的に連なり、うっそうとした深く多様な森の様相を見せます。



 標高2000mを超える頃、熱帯オーク主体の森の中にヘゴなどの木性シダ類が目立ち、熱帯地方でしか見られない林相が感じられます。



 林床のシダ、開葉の様子。熱帯の植物はまるで動物のように盛んな動きを見せるように感じます。

 

 尾根筋に現れるヤブレガサウラボシ。



 幹に着生するオオタニワタリ。
 年間を通して雨量が多く、空中湿度が常に飽和状態に近い林内の太い幹は分厚い苔に覆われ、ランなどの着生植物やつる植物がまとわりつきます。



有名な食虫植物、ウツボカズラも様々な種類が見られます。



 林床だけでなく、空中にぶらさがるように群生するウツボカズラも見られます。大きなものは虫だけでなくネズミなどの小動物を飲み込んで分解してしまうと言います。



 標高3000m前後あたりから、ナンヨウスギやポドカルプスなどの針葉樹が目立つ樹木に覆われてきます。それでも林床にはシダやヤシ類が見られるのが何とも面白い光景です。
 高山の厳しい風の影響で木々の樹高もこの辺りになると低くなり、高山の様相が感じられます。
 日本の中部山岳では、2400m程度で森林限界に達しますが、熱帯多雨地域の山岳の場合、3500m付近まで森に覆われます。上から下まで落葉樹が見られないのも、日本とは異なります。



 標高3400m付近、夕暮れ時の雲海。



 花崗岩の巨大な岩盤で覆われたキナバル山頂部。全体が1枚岩のような岩峰です。



 下山路。ボルネオの山襞。



 キナバルの麓、広大な山地多雨林を見下ろす。山麓を覆い尽くすこの地域の山地多雨林は世界でもっとも古くから存在し続ける森と言われます。その生物多様性は今や世界随一とも言われますが、その森も、麓の開発によって分断され、徐々にその多様性を失いつつあるようです。
 有用樹種の多い低地の豊かな熱帯雨林は、東南アジアではほぼ木材採取のための伐採の手が入り、開発されつくされつつあり、今や一部の保護地域や奥地の山地だけが、失ってならないはずの地球財産としての豊かな熱帯の森を今に未来に伝えているようです。



 高木の根元、板状に樹体を支える巨大な板根。標高が下がるにつれて、低地熱帯林に見られる、板根の発達した巨木が多く見られます。
 有機物を多く含んだ表土が非常に浅い熱帯の森では直根を発達させることができず、こうした板根の発達によって100mにも達するというタワーのような樹体を支えているのです。



 土壌の断面。腐植を含んだ表土層はわずか数十センチ程度で、その下には酸化鉄や酸化アルミニウムを多く含む痩せた赤い酸化土壌の層が続きます。
 こうした熱帯土壌はの特徴は、気温が高くて落ち葉や有機物の分解速度が非常に速い上、雨量が多く養分が蓄積せずに溶脱してしまいやすいことから生じるようです。

 開発された熱帯の森が容易に再生されないのも、こうした土壌条件が大きな要因になっていると言えます。



 麓の農村。痩せた土壌のこの地域ではつい最近まで森を焼いてその養分を利用して作物を作る焼き畑農業が主体だったと言います。今も、広大な焼き畑跡地が草地のままで残り、そこはなかなか本来の森には戻っていかないようです。
 こうした跡地は、肥料多投に支えられる農地として、あるいは開発用地とされていきます。



 生き物の気配溢れる豊かな熱帯の森を次世代に伝えていかねばなりません。


 




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街中の森に想う~下賀茂神社 糺の森にて   平成25年9月11日



 名古屋市守山区、造園設計依頼いただいたNさんの住まい、背面の森です。
 海外生活の長いNさん家族は、それだけに住まいの環境に対して豊かな感性を持たれています。
 Nさんは四方を森に囲まれたこの地に家を建て、家族で住まれて3年が経過しました。



 Nさんの住まい東側に隣接する雑木の斜面林。傾斜地であるがゆえ、比較的良好な状態で森が残されてきたようです。
 3年前は四方を林に囲まれていたこの家も、今は北側と東側にこの雑木林が残るのみとなりました。
 


 家の窓越しに森の息吹が伝わります。森の冷気が流れ込むこの家にはもちろん、エアコンなどはありません。天然の空調装置が周りにあるのですから。
 こんな場所を家族の住処に決められたNさんの意識の高さに頭が下がります。



 ところが、Nさんがここに住まれてからのわずか3年の間に、西側(上写真正面奥)の森が大規模に切り開かれて、分譲住宅用地として造成されました。



 そして家屋に隣接する南側も、森が切り開かれて真正面に家が建ち、隣家の窓は正面で向かい合っています。お互い落ち着かないことでしょう。

 3年前、四方すべてが森だったこの地に住み始めたNさん家族、見る見るうちに周囲の森が削り取られ、環境が一変しつつあるのです。
 環境意識の高いNさん家族にとってそれがどれほど大きなことか、想像に難くありません。



 南西側から家屋を見ます。北側と東側には斜面林が維持されていますが、Nさんのお話では、この森もいつ消えるか分からないと言います。
「そうなればまた引っ越さないといけない。」冗談交じりにNさんはそう言いますが、それが本心なのでしょう。
 Nさん家族の暮らし方にとって、住まいの森はなくてはならない存在のようです。
失われた南側と西側の森。南側と西側の外空間がどうあるべきか、これからNさんと一緒に考え、計画していきます。
 本当の意味で心地よい住まいは建物だけでは完成しません。それを補完する外空間の役割はとても大切です。

 四方が3年前と同様に森が維持されていたのであれば、Nさんはきっと私に造園を依頼されることはなかったことでしょう。
 これも縁というものなのかもしれません。そして、失われた外空間、住まいの環境を補完するという、私たちの仕事の役割を改めて実感します。

 街中の森、かけがえのない環境は、簡単に消えていきます。このことは、その価値に気づかない人たちにとっては、何とも思わないことなのでしょう。
 しかし、その価値は単なる嗜好の問題ではなく、永続的な生存基盤たる普遍的な価値であるということに、社会が気づかねばなりません。



 名古屋打ち合わせついでに京都に足を延ばします。今回訪れたのが、下賀茂神社 糺の森(ただすのもり)です。
 京都市街地の北部、賀茂川と高野川の合流する三角州に、平安遷都以前からこの地にあり続ける糺の森があります。



 その面積は現在12万4千平方メートル。平安京当時はその40倍の面積の森がこの三角州に広がっていたということから、当時はこの森が下流の平安京を、洪水などの災害から守っていたであろうことが容易に想像されます。

 市街化された平地にこれだけの原生の森が連綿と残されるということはまず全国的にも珍しく、そのことが、この地が千年の都、京都総鎮守としての神の社であったことの証とも思えます。

 水の豊富な三角州。平地の森を流れるいく筋もの清らかな清水が、ここが周囲を市街地で囲まれて孤立した森であることを忘れさせられます。



 静謐で神々しさを感じる神の社。冬の冷え込み厳しいこの地には、ケヤキやムクノキ、エノキなど、ニレ科の落葉広葉樹が大木として優先する樹林を形成しています。
 シラカシやスダジイが優先しがちな関東の鎮守の森の野趣深い荒々しさとは対照的に、清らかで繊細な空気を感じます。



 一見健全に見えるこの森も、街中の孤立した森と同様の様々な問題を抱えているようです。
 高木の枝枯れは顕著で、巨木の衰退を感じます。
 林床はササやアオキ、棕櫚など都会の森で著しく増えて林床を占有しがちな種類ばかりが増えてしまい、それが本来の生育樹木の天然更新を妨げています。

 ニレ科落葉高木の衰退は、温暖化に伴う気候変動、大気汚染、市街化による地下水位の低下など、環境の変化が大きな原因なのでしょう。
 本来暖温帯域のこの地にケヤキなどのニレ科落葉樹の原生林が残ってきたのは、暖温帯域にしては冬の冷え込みが厳しい内陸の盆地であることと、三角州ゆえの地下水位の高さが、その大きな理由としてあげられます。

 今、温暖化が急速に進み、そして気候が大きく変動し、そのスピードがもたらす環境の変化はこれまで経験したことのないだけに、想像を超えることでしょう。


 
 近い将来、ニレ科の優先する糺の森の今の姿は、いずれ過去のものとなるかもしれません。



 木々が大木化してすでにニレ科の天然更新が見られず、乏しくなった林床に新たにニレ科やモミジを中心に補植の試みがなされています。



 密植して補植された木々は、今のところある程度健全な生育を見せている箇所が多く見られます。
 しかし、これからの時代、この地にますます今の森林構成が適さなくなる中、今の姿を維持しようとする補植樹種の選択がはたして正しいのか、私にはわかりません。

 では、温かな気候に適応する樹種を植えればよいかと言えば、そんな単純な問題でもありません。急速に温暖化してゆくと言えども、異常気象の多発、本来の寒さのぶり返す年もある中、土地に適応する新たな樹種構成を見出して手を打つことは並大抵のことではありません。

 が、これも考えていかねばならないことなのでしょう。100年先のことではなく、5年先、10年先の気候変動が我々に何をもたらすか、木々に何をもたらすか、それが近く訪れる早急な変化であるということを、こうした森の木々から否応なしに伝わります。



 森から湧き上がる御手洗の水が水源となる御手洗川。市街地の真っただ中にありながら、今はまだ豊かなこの森が水を溜めて川を作ります。
 森はいのちの生存基盤、いつまでも荘厳な森が絶えることのないよう、祈るばかりです。






投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
 備瀬集落の屋敷林と沖縄の木々   平成25年8月10日


 ここは沖縄本島北部、本部半島の先端付近の備瀬集落。
 ここでは現在もなお、250戸ある集落全体がフクギの屋敷林に覆われて、厳しい夏の日差しや台風を完璧に防ぎ、エアコン要らずの開放的なかつての南国の暮らし方を今も伝えています。



 葉が厚く密に茂らすフクギは亜熱帯地域の防風林として非常に適しており、しかも夏の強烈な日差しを完璧にシャットアウトし、南国の暮らしの環境を長い間守ってきました。
 沖縄本島をはじめ八重山諸島ではいまでもフクギの屋敷林があちこちで見られますが、この備瀬集落は、そんな南国での快適な暮らし方を集落全体で維持されている随一の事例と言えるでしょう。



 木々に守られた集落のすまい。



 時間が止まったような世界です。が、この素晴らしい暮らしの知恵をこれからの住まいつくりに活かすべく、発信し続けて欲しいとの思いが沸き起こります。

 日差しが強く、頻繁に台風に見舞われる亜熱帯で、エアコンもなく、外界をシャットアウトした不自然な高気密性も要せずに、屋外の空気や生き物の気配を感じながら心豊かに暮らしてゆくことができる、それがかつての暮らし方でした。そして、心和む美しさ。

 さて、ヒートアイランド化に苦しむ現代日本の住宅や、日本の街はなぜ、そこまで貧しく、住みにくく、見にくいものになっていったのでしょう。
 
 木々の力を暮らしの環境つくりに活かすという、かつては当たり前の知恵がなぜ今、忘れ去られたしまったがごとく劣悪な街、気密性と空調なしではどうにもならない劣悪な住まいばかりが広がってしまったのでしょう。
 これが本当の豊かさなのでしょうか。この先、かつての美しい日本はますます壊れてゆくのでしょうか。



 真夏の日中でも涼しく過ごせるこの集落。数百年もの間、半島先端の海辺の暮らしの環境を、幾世代にも渡って守り育ててきたのです。

 フクギの防風効果について、2011年8月に沖縄本島に2日間居座り続けて大きな被害をもたらした、大型台風9号襲来時の興味深い観測データがあります。
 当時、那覇市内の平均風速25m/秒の暴風時でも、同じ那覇市内、フクギの屋敷林の中では、なんと5分の1の平均風速5m/秒以内との観測でした。
 つまり、フクギに覆われた集落は台風などものともしないのです。
 その反面、平穏時での測定では、微風を止めずに常に快適な空気の流れが生じているという、つまり、フクギの屋敷林は風を止めるのではなくて風を制御しているということが、観測データによって明らかにされました。



 集落を抜けると備瀬岬の美しい海が広がります。



 沖縄本島の海岸沿いには、クサトベラやアダン、モンパノキといった潮風につよい一部の矮性樹木が群落を作っています。
 南国の海は明るく美しい。しかし、この強烈な夏の日差しと強い照り返し、必ず襲来し停滞する台風や強烈な潮風、ここに暮らすということは、そんな自然の猛威を緩和して暮らしやすい環境を作ってゆく知恵こそが、本当に持続的で人にやさしく、本当に豊かな環境つくりにつながるということを、改めて強く感じさせられます。



備瀬集落の屋敷林が海岸に面するところ、そこは潮風に強いフクギと言えども、海での最前線では痛み、葉を落とします。しかし、幾重にも連なる木々が守りあい、こんな環境の下でも健全に育ち、暮らしの環境を守るフクギの屋敷林が営まれ続けてきたのです。




 集落はすべてそよ風流れる木々のトンネルの中。ここはおそらく、今の沖縄でもっとも快適に過ごせる集落であることは間違いないでしょう。かつては当たり前だった集落の風景。
 沖縄にとどまらず、かつての日本では戦前までは間違いなく、それぞれの土地の気候風土に応じて木々を活かして快適な暮らしの環境を作ってきたのです。こんな豊かで美しい環境、

 これからの暮らしの環境つくり。大切なことはなにか、その答えの一つが、木々のトンネルのはるか向こうにはっきりと垣間見えるようです。

 そして、緑を扱う自分の仕事に対して、このフクギの森が問いかけてきます。何をすべきか、すべきことがあるだろう。
 木々と共存した豊かな暮らしを伝えたい。失われ続ける本当の豊かさ、本当の知恵、それを形にしてこれからの社会つくりに生かしてゆくべき使命をまた、がっちりと背負わされます。


 15年ぶりに訪れた4回目の沖縄、今回は北部を中心に沖縄の森や木々を駆け足で回ります。



 ここは中世琉球のグスクの石垣、座喜味城址です。精緻に積まれた美しい曲線の石垣が、日本とはまるで違うかつての琉球王朝を感じさせ、雄大な気持ちにさせられます。



 城門のアーチには加工された石のくさびを用いており、その技術の高さには見るべきものがあります。
 加工しやすい柔らかな琉球石灰岩が基岩として豊富に産出される地理条件が生み出した石積み文化と言えるかもしれません。



 そして、2億年前に隆起した琉球石灰岩が浸食作用を受けてできたカルスト地形で有名な辺戸岬近くの大石林山を訪れます。
 温帯カルスト地形としては山口県の秋吉台が有名ですが、この大石林山は熱帯カルスト地形の世界的な北限となります。



 石灰岩を基岩とする山には独特の植生が見られます。



石灰岩を好んで生育するアコウやソテツ、イスノキやシマタゴ、クスノハガシワなど、鉄分が多く酸性化した赤土主体のやんばるの森とはまた違った植生が展開しています。



 精霊の宿る木と言われるガジュマルの大木。ガジュマルも石灰岩基岩に好んで生育しています。

 

そして北部一帯に広がるやんばるの森。



 ブロッコリーのようなイタジイを主体にした照葉樹林の森です。痩せた熱帯土壌と強烈な日差しや風雨にさらされる気候条件が、イタジイの下枝を枯らし、遠くから見るとブロッコリーのように見えるのでしょう。



 下枝を枯らしたイタジイの高木は日差しを妨げすぎることはなく、そのため温帯の暗い照葉樹林と違って、この森は明るく、種類豊富な下層植生が豊かな亜熱帯林を構成します。

 やんばるのような亜熱帯性の照葉樹林は、ヒカゲヘゴなどの木性シダ類はじめ、林床にシダが多いことや、クワズイモなどの熱帯性の大型草本類が多いことも、我々のなじみ深い温帯の照葉樹林とはずいぶんと異なります。




 遠目では緑豊かに見えるやんばるの森の多くは、木々は細く、高木の樹高も低い森が多いようです。

 戦時中の木材供出など、人による森の攪乱の後、長年にわたって放置されている場所でも、亜熱帯の気候条件や痩せて酸性化した土壌条件のもと、一度壊してしまうと、元に戻すには我々の住む温帯多雨気候域に比べて時間がかかるように感じます。



 そんな中、土地本来の森を求めて、祈りの場所、御嶽(うたき)を訪ねます。ここは諸志御嶽。古くからの信仰の場所となっていたこの地では、土地本来の低地林の様相を見ることができます。
 大木となったムクロジやクスノハカエデ、アカギ、アカテツなどの下、シダ類以上の木性植物だけで200種類以上生育していると言います。
 本来の豊かな亜熱帯の森の貴重な片々がここに見られます。

 水辺という微気候的な条件もこの地の豊かな森を育むための大きな要因になったことでしょう。



 同じヤンバルと言えども、基岩の違い、それに谷筋などの微妙な地形的な違いで大きな植生の変化がみられるのが、山歩きの楽しさです。
 ここ、安波川下流、タナガーグムイの滝つぼ付近では、豊かで健康な木々が見られ、やんばるでも希少な植物群落がみられます。
 谷筋の涼しい微気候条件や沖縄では珍しい粘板岩の基岩という条件も、この地特有の植生を育む要因となったのでしょう。



 川沿いのヒサカキ。やんばるでは希少で、おそらく谷筋などに点在しているのでしょう。
 温帯と同じようなヒサカキやハイノキ(アオバナハイノキ)、リュウキュウアセビやリュウキュウマユミなど、温帯に近く何かほっとさせられる木々とみずみずしい雰囲気に癒されます。



 中東部、慶佐次川下流、汽水域と呼ばれる海と川とが交わる場所に広がるのは広大なマングローブ林です。



 潮が引くと、今にも歩き出しそうなヤエヤマヒルギの気根が全容を見せます。慶佐次湾には、このヤエヤマヒルギの他、オヒルギ、メヒルギと、合わせて3種類のヒルギが汽水域に豊かなマングローブ林を形成しています。

 このヒルギの無数の気根が山からの土砂を溜めて干潟を作り、そこはシオマネキなどの蟹類やトビハゼやボラの稚魚など様々な生き物に棲家を与えます。



ヤエヤマヒルギの胎生芽。これが落ちて干潟に刺さると芽を出します。



 うまく砂地に刺さるのはほんのわずかのようで、たいていは潮に流されます。刺さった胎生芽は芽を出し。そしてまたヒルギの林を広げていきます。



 潮の満ち引きの影響を受ける汽水域に生育するヒルギ林が根にフィルターで水を浄化し、そしてそこに豊かな生き物の生育場所を与えます。

 あまり知られていないことですが、沿岸域に甚大な被害をもたらした2004年のスマトラ沖地震の際、マングローブ林が残る地域の津波被害は他地域に比べて非常に少なかったと言います。マングローブの無数の気根が津波の勢いを減殺し、そして引き潮でさらわれる無数の人の命が、これら木々に絡まることで助かったと言います。

 慶佐次湾のガイドが言います。
 「沖縄では昔から、『山ハギネ、海ハギン』という。
 山を壊せば海も壊れるという意味。
 森を壊せば山の土砂雨水が一気に流れ込んで、ヒルギ林もなくなる。そうなれば直接土砂が海に流れ込んで海も壊れる。海と山は繋がっている。」



 エメラルドグリーンの美しい沖縄の海は、最初にここを訪れた30年前と変わらないように思えます。
 が、見えないところで少しずつ壊れていっているのかもしれません。

「山ハギネ、海ハギン。」生き物はすべて繋がっているということ。



 20年前、放浪の旅路の途中に訪れた沖縄で私は造園の仕事に出会いました。
そして、この仕事の可能性と面白さに魅せられて、造園の仕事に身を投じて20年が過ぎました。
 きっと、沖縄の風土と温かでおおらかで平和な気質が、ハングリー精神の塊のようだった当時の私をほぐしてくれたのでしょう。

 また次に訪ねるときはいつのことか、分かりませんが、いつまでも豊かな地であり続けますように、祈らずにいられません。
 さて、またこれからの自分の天命を探して仕事に励みます。

 



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
   
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