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雑木の庭つくり日記

南紀の旅 今昔考その1 紀伊の参詣道と周辺  平成28年1月10日



 ここは熊野古道中辺道、野中の一方杉と呼ばれる巨杉群。

 元旦早々から断続的に紀伊の霊場とその周辺を踏査し続けて最終日の1月8日、南紀の気候風土が生みだした知の巨人、南方熊楠が全霊を投じて守った、この森にたどり着きました。

 南方熊楠は粘菌学、生物学、民俗学、博物学研究の日本の草分けとして知られますが、本来、彼の人物、思想、見識は、そういった分類された学問領域の範囲に収まるものではないのでしょう。


 
 南方熊楠の生きた時代には、44本あったというこの地の巨杉も、今はこの8本のみとなりながらも、今も深い霊性を持って語りかけてくるようです。
 元旦からの一週間余りの間、南紀を巡る中で、この地域一帯の大規模な環境劣化と壊滅的なまでの破壊を見て、悲嘆に暮れていた我が心に浸みわたるものあまりに多く、この神域に入り、木々を見上げて涙がこみ上げていつまでも止まらなくなるのです。

 今、この旅を振り返る時、あの時の涙は一体何の涙だろうかと思うにつけて、不思議に澄んだ感覚に包まれます。
 豊かな南紀の自然の著しい破壊を一週間も追い続けて荒みかけた心を、この木々は間違いなく癒してくれたのです。そしてその癒しは、とても静かで、悲しげで、そして大きく温かく、人間としての贖罪をも受け止めてくれる、そんな、いのちのぬくもりとも言うべきでしょうか。

 とにかく、そんな不思議な感覚を表現するには、僕の拙い言葉でははるかに足りないのです。

 そして、この森の霊気を愛し、自らの研究人生も私財も、そして家族の暮らしをも犠牲にし、御一時は投獄されてまで、熊野の森を守ろうとした南方熊楠への感謝の想いもまた、この木々たちから確かに伝わります。いえ、熊楠自身の魂がもうすでにこの木々と一体となったのかもしれません。
 この森の巨杉群も、神社合祀の荒波の中で伐採されるところを、合祀に強く反対する熊楠の並々ならぬ熱意によってかろうじて伐られずに守られたのでした。

 南方熊楠が多大なエネルギーを投じて反対した、神社合祀(明治末期から始まった、いわば神社の統廃合、貴重な森と史跡を数多く有していた和歌山三重では、実に8割以上の神社とその鎮守の森がこの時期に消滅した)、熊楠が危惧したのは、合祀によって多くの神社がなくなる結果、地域を黙々と守り続けてきた古来からの鎮守の森が伐採され尽くすことへの危機意識だったのです。
 伐採によって生態系のバランスが崩れ、それが植物の生育のみならず、地域環境の劣化を招き、人の暮らしや人心にも取り返すことのできない影響を及ぼし、様々な問題が派生してゆく、そのことに対して熊楠は座視することはできなかったのでした。



 粘菌研究を通して熊楠は、草木菌類等、生きとし生けるものたちの密接なつながりに気付き感動し、「エコロジー」という思想、あるいは学問分野を日本で初めて、実践を持って切り開いていったと言えるでしょう。

 南方熊楠はこの老樹保存を訴える書簡の中で、図を付けて下記のように記述しています。

 「図の如く、老樹生えたる上の小雑木(*下草灌木の類)など、少しにても伐り候はば、五年を経ずして老杉が葉の色変わり出るものに候。」  (明治44年 野中瀬弘男宛書簡)

 つまり、こういうことです。

 「単にこの老樹だけ残せばよいというものではない。この木々はこの森の一木一草含むすべての生き物と共に、相互密接に関係し合いながら息づいている。だから、例えばこの木の根元に生えたる小さな雑木下草をわずかでも切り払ってしまえば、あっという間に精気をなくし、5年もたたずに葉の色が黄ばんでゆくものが必ず出てくるであろう。」

 この時代において、自然界の営みを透徹した驚きの見識というべきでしょう。

 人は、木々や自然と日頃接しているから、あるいは長年木々や植物を相手に仕事してきたからと言って、それだけで自然や木々のことを知っているということでは決してないのです。
 日々の精進の中で本当の智慧を獲得していけるかいけないか、その境目とは、心の在り様に依るのでしょう。
 純粋に心開いて大地・自然環境と寄り添い、愛し、感じ、包まれ、感動し、畏敬し、そして自分の生き方や精神が変えられてしまうほどまで思い続けて初めて、大地の息吹との一体感が生じ、そこに様々な智慧が、心の奥から泉の如く滾々と湧きおこるものなのでしょう。

 南方熊楠という智慧の巨人は、私にとってどれほど尊敬してもしつくせない、そんな人物だったのです。



 今、樹齢400年以上のこの一方杉はわずかに8本を残すのみとなりました。
 それはまさに、南方熊楠が予言したとおり、この場所、そして貴重とされたこの木々だけを、周囲のいきもの環境と切り離して「丁重に」保存しようとする、環境全体の繋がりをおろそかにしてきた近年の保存の在り方に対して、それが永遠の過ちであるということが、ここから発信され続けているのです。

 過ちは、その理由とプロセスを明確にして、社会において正していかないといけません。
 1200年以上も続いてきた、自然環境と共に息づいてきたこの地の暮らし方や祈りの智慧を、その本質の部分から次世代に繋いでゆくことが、今を生きるものの大切な務めであり、責任であると感じます。そしてそれは、未来永劫、人が生きてゆくためのいのちの基盤であり魂の基盤であるのです。



 温暖で雨量も多く、地層断層にも恵まれた南紀は、山また山と続く古来からの霊場で、吉野から熊野にいたる大峰山中には今なお、樹齢数百年、数千年という巨木が辛うじて残るところがあります。
 しかしながら、私の感じるところ、この継桜王子の巨杉群ほど、衰えたとはいえ、かろうじて霊気を供えているところはほとんどありません。
 それはすなわち、この山域全体の自然環境の著しい衰退劣化を現わしていると言えるでしょう。
 かつてこの山域は蘇生の地として日本あけぼのの時代から、都からそして遠方から、心を洗い力をもらいに修行者が絶えない日本第一の山岳修験霊場だった、その地が今、かつての力を急速に失っていることを今回の旅で知りました。

 今回訪れた南紀のこと、感じたこと、あたらな発見、ブログをいつも読んでくださる皆様にお伝えしたいこと、お話ししたいことは山ほどあります。すべてをここで著わすことは叶いませんが、2回に分けて少し、旅の報告をさせていただきたいと思います。



 ここは熊野古道中辺路 途中。幾重にも重なる山間の道は、周囲の自然環境を大切に配慮しながら営まれてきた暮らしが今もなお垣間見られます。



 山間地に刻まれたかつての名残の地形は美しく、この地の永遠の風景の中に違和感なく溶け込みます。
 山間部での暮らしを成り立たせるため、先人によって傾斜地に無理なく土地が刻まれています。
 無理に土地を刻めば大地を円滑に潤す水と空気の流れを妨げてしまい、土地はまたたくまに生産力を減じ、そして崩壊する、かといって土地に対して何の造作もしなければ、ここでの豊かな自給的暮らしは細るばかりで成り立たない、その狭間で人は大地と対話し、自然環境と折り合いをつけ、数百年の時を超えて風雨に持ちこたえうる、そんな土地の造成を成り立たせてきたのでしょう。
 
 永遠の美しさは、智慧を持って土地を刻んできた、こうしたかつての営みの名残に見慣れます。これこそが無意識のうちにも、人の大切な愛郷心を育んできたことでしょう。
 こうした場所に静かにたたずみ、心癒されぬ人などいるものだろうか、いるとすればそれは、騒がしい雑念の中で、心の奥底からの声に耳を澄ませるという、人の安らぎの本質を忘れてしまっただけなのだろうと思うのです。



 土地を刻み、出てきた石を積んで田畑を広げる。山間地に平坦部分を作れば作るほど、土中の空気が抜けやすい段丘が生み出されます。直角に近く切り立った石積みの隙間から空気が抜けて土壌環境が育ってゆくにつれて、人にとっても、またその土地の生態系にとっても、生産性の高い土地が育ってゆくのです。

 ここは日本有数の降雨量を誇る、昔からの台風銀座というべき南紀の山間部。そこで土地を保ち豊かな暮らしを成立させるためには、それ相応の造作の工夫が必要になります。



 安定感のある石垣にはつるや下草の根がはびこり、とても安定した風景に安心感すら感じさせられます。
 石の隙間から土地は呼吸し、そしてその地のあらゆるいのちにとって無理のない光景を感じさせてくれることこそが、この安心感をもたらしてくれるように感じます。




 集落に大切に守られてきた防風の木々、それ程古い植樹ではありませんが、木々は先端まで精気にあふれて健全な状態が保たれている、今や、そんな健全に近い樹林を見ることの方が少なくなりましたが、こんな場所に立ち会うことで力を分け与えてもらえるせいか、体は見違えるほど軽くなります。



 参詣道の古い石畳は、ごつごつした見た目とは裏腹に、歩きやすく、先人による絶妙な配慮が感じられます。
 造園の仕事で日常的に石畳を配する者として、こうした古道の歩きやすさと安定感には脱帽し、心底から畏れ入ってしまいます。



 決して平たんに据えられた石畳ではなく、むしろ荒々しく、ごつごつとした見た目でありながら、そこを歩けば足の底から五感が刺激されて頭は透き通り、細胞が活気づく、それが蘇生の道と言われるゆえんでもあり、またかつての人の、今とは比ぶべくもない精神性の高さが生み出した、人間の道たる何かを感じさせてくれます。

 こうした道、こうした人間の魂を高めるほどにいのちの宿る、そんな石畳を作ることがいかに、現代離れした高尚至極の業であるということは、先人にはるか及ばぬ不肖の作庭者である私にはよく分かります。



 これは古道途中の、最近整備された石畳道です。古道の雰囲気を損なわないように作ろうとした形跡は感じますが、これが実に歩きにくく、疲れるのです。そして見た目の安定感も当然感じられません。
 セメントで固定された石はクッションも効かずに足になじまず、そしてこの道の造作によって土が締まり、周囲の地表も不安定化して、木々下草の根が後退していることも分かります。
 似て非なるものとはこうしたことを言うのでしょう。
 心清き先人の素晴らしい業がすぐそばで見られるというのに、そこから何も学ぶことができないのも人の真実の一つなのかもしれません。

 学ぶということにプライドは要りません。学ぶ喜び、知らないことに満ち溢れる世界へのワクワク感、そしてそれを学んだ時に迷わず、正しい方向へと軌道修正する魂の姿勢こそが、人間に必要なことだと感じます。
 そんなことを分かっているようでも、その場に直面してそうできないのが人間の弱さというものです。自分自身そうした、弱く不明な人間であるということを忘れず、自然の真実に向かい合い、そしてなお、負けないことが大切なのかもしれないと、そんなことを考えます。



  そして古い石畳には樹木の根が入り込み、これがまた蹴上げとなって石畳を補強し、道を安定させます。ここもまた歩きやすく、木々がこの道を守ろうとしているかのようです。
 今ここでは、木々は人の通行を許容し、共存できている様子が、見た目にも、そしてこの場所の空気感や草木の表情からも分かります。
 しかしながら、これが何らかの原因で無理が生じ、木々にとってこの道の存在が好ましいものでなくなった時、、根は持ち上がり、とげとげしく人の通行を邪魔し始めるのです。
 そんな事例は無理につくられた登山道などでよく見受けられます。そうした場所は、雨が降ると瞬く間に泥水が流れてさらに環境を痛めてしまう、そんな場所が多いようです。



 安定した山道、それは、道に降り注ぐ雨水がきちんと大地に潜り込んで、山域全体の水脈の動きと一体化させてゆくことが、数百年と崩れることのない道つくりの絶対条件ではないかと思います。
 かつての安定した山道を巡るにつけて、水と空気の流れに対する絶妙な配慮に、いつも心が高ぶります。
傾斜地の石畳は決して傾斜角に対して平行には据えられておらず、むしろ階段のように一つ一つの石が蹴上げのように、ごつごつ座っています。それも、常に平らな面を出しているわけでもなく、それていて歩きやすいのです。

 まるで、安定した上流部の川底のようです。降り注いだ雨は多くは浸み込み、大雨の際に浸み込みきれない分は表層を流れながらも、一つ一つの石にぶつかって勢いが弱められ、大地を削ることなく等速で流れます。
 そして、山側、谷川にまた、川底のような表情をした横溝に表層水が集まるとともに、路面にしみ込んだ水もこの溝に側面から浸みだし、そしてまた地中に潜り込みます。



 石畳み両脇の溝は、木々の根と大小の石が絡み合い、大雨でも泥水が流亡することなく、ここから様々な空隙を通して土中にしみ込んでいきます。だから、安定した場所では地表が水に削られた跡はほとんど見られないのです。
 この状態こそ、この道が自然との一体化の中での安定した姿であり、これを自然は長年の風雨から守るように働くのです。それはすなわち、この道の存在が自然界の営みにプラスの形で寄与するのですから、自然はそれを永続的に守り取り込もうとするのです。水路に絡み合った太根と細根の存在が、そのプロセスの一端を明かします。

 自然と人との共同作業によって作られた道は二つとして同じ表情はなく、実に豊かで見ていても飽きることがありません。

 こうした、自然の力を借りて参詣道を未来永劫に保とうとした先人の智慧に、我々は今こそ学ばねばなりません。



 石畳で有名な熊野古道は、連続した道ではなく、断続的に残った道を近年整備して繋いでいるのですが、ここも新たに最近整備された道です。
 石は用いず、さりげなく山道の雰囲気を壊さぬように配慮されているのですが、しかしこれも本質的な部分で間違った整備と言えるでしょう。

 セメントや石を用いず、歩く人の脚にやさしいようにと、真砂土を締め固め、そして有機的な丸太で横断面、側面に表層水の道を配しており、一見、古道の機能性に学んだ施工のように見えますが、中身はまるで違うのです。

 こんな傾斜の山道で路面に砂地を用いれば流亡します。



 実際、路面にはすでに地表流によって削られ、真砂土が流亡し続けている様子がうかがえます。
 川でも、上流や滝などの水のエネルギーが高い個所では砂も土も流されて岩と礫ばかりとなる、そんな場所の路面が粒子の細かい土や砂では、なかなか安定しないのです。

 表層を水が流れる度、地表の微細な通気孔は泥詰りして硬化し、さらに浸透性を落としてしまい、流出する泥水は増えるという、厄介な悪循環が始まります。



 そして、雨の度に流れるその表層の泥水を逃がすため、溝を横断させて斜面谷側に誘導しています。溝の底は、泥が流れて表面に膜のような硬化土層が生じています。この道から雨の度にに流出する泥水の量はは相当なものであることが推測できます。そして厄介なことは、この道が自然の作用によっていずれリセットされるように崩壊するまで、泥水流亡の悪循環は収まらないということです。

 これによって周辺の山は徐々に荒れて、そしてやがて大地を支える力を失い、崩壊の原因にすらなるのです。

 かつての人為的な排水溝は、植物の力を借りて地面に浸み込みやすい状態を作って表層に泥水を走らせるようなことはしなかった、それをしてしまえば長年の道として保たれないということが分かりきっていたのでしょう。
 そこが今の、「道の表面を流れる水だけ消してしまえば後はどうでもよい」という、本質を見失った浅はかで、環境を傷めるばかりの現代の土木技術とはまるで異なるのです。

 もちろん、この世界遺産ともなった参詣道において、誰もこの貴重な環境を壊そうとしてやっているのではないのです。しかし、良かれと思ってやっていることが実はすべて、この地の環境に対してマイナスをもたらしているのです。
 その悪循環の根底にあるのは、水と空気の流れこそが環境を息づかせて安定させているという、大切な視点の欠如なのです。
 これからの時代、現代の技術が置き去りにしてしまった、そんな大切な視点を再び取り戻すことに力を注がねばなりません。



 中腹の山道は、基本的に等高線に沿って、尾根や谷を巻くように道が続きます。必然、谷筋を道は渡ります。写真左から谷のラインは伸びています。
 谷筋の土中には周囲の斜面から水脈が集まり、水と空気が大量に動く場所、人間で言えば大動脈と言えるでしょう。
 地形造作の際、最も崩れやすいのも谷筋であり、これを停滞させてしまえば瞬く間に流域上部にいたるまで、森の精気が失われる上、崩壊の起こりやすい状態を招きます。



かつての山道で谷筋に道を廻す際によくおこなわれていた方法ですが、井桁状に丸太を組みあげてそこに路面の踏圧を受け、谷部の地面が圧密されない配慮が施されます。そして井桁の間に石や礫を絡ませて、谷底の水の動きを妨げることなく、土中深部へ誘導されるように配慮されているのです。
 そして、水や空気が抜ける丸太組みはやがて周辺から草木の根が絡み合い、そして同時に丸太は徐々に土へと帰していき、谷筋はあたらに作られた道の地形で安定してゆくのです。
 安定してしまえば、表層に水が流れた形跡は全くなくなります、どんな豪雨にでも円滑にこの谷筋の水脈へと水が浸みこんでいることが分かります。
 本来の健康な状態の山中では、自律的にそうした状態が作られるもので、それが何らかの原因で錯乱が生じた時、本来の円滑な浸透機能を消失して、そして木々は痛み、、表層は荒れて土壌が流亡し、それが土砂崩れや水害へと繋がることもあるのです。



 そして、谷部分の道の山側は、元の地表の下がえぐられて、表土がオーバーハングした状態で安定しています。苔や下草の表情から、ここも表面流の形跡はありません。
 観光客も増えて道が踏み固められるに従い、上部も若干それまでに比べて空気の停滞が起こります。すると、下層から樹木根が後退して、切土面の下方が少し崩れます。こうした光景は道沿いによく見られますが、山はこの小規模な崩れによって新たな空気の通り道が確保され、そして安定していきます。
 だから、こんなオーバーハング状態が山道沿いでよく見られますが、落ち葉や下草に守られた笠によって、崩壊面に雨が当たらず、これ以上の崩壊が進行することなくやがて苔むして、新たな表土が形成されて根が張り、この道を自然は受け入れて守ろうとするのです。

 ほんの少し前までは、こうした土中の水に対する配慮が当たり前のようになされていたのです。
 これからの土木技術は、こうした自然を味方につけるあり方、その重要性を再び認識し、取り入れることこそが、安全でいのち息づく豊かな国土を再生し、未来の子供たちに繋いでゆくために必要不可欠なことと確信します。



 一方で、急斜面に車道を通し、谷部の巻道部分にもコンクリート土留めによって土中の水と空気の動きを滞らせてしまった場所はいつまでも安定せず、人工による表面的な緑化もまったく意味を成しません。



これを大きな力で抑え込もうと、山を治める「治山」と称して、砂防ダムが配され、これによって土中の水と空気だけでなく、谷筋を流れる清浄な風も滞り、、その周辺の木々は劣化し、小さな地すべりを繰り返して倒木します。



 その結果、ますます谷は不安定化して地形を保つことができず、表層にとどまることなく深層からの大規模崩壊を招くのです。崩壊は大小の水脈沿いに起こります。
この大規模崩壊のあと、次々にコンクリート砂防ダムがつくられますが、一向に安定することはありません。あたらな治山工事よって山は広範囲に荒れて支えきれず、そしてまた新たな崩壊が周辺で多発してゆくのです。



 写真左箇所のコンクリートのり面工事は、平成23年の紀伊半島大水害の際に崩落し、そしてそこが固められたものです。
 これによって土は本来の透水貯水機能を失って乾き、木々の根は衰退し、そしてまた隣の箇所が崩落します。ここも実は、2度目の崩落で、一度は法面保護工がなされたのにまた、同じ個所が崩落したのです。(右側土砂崩壊部分)
 自然の摂理を顧みずに大きな力で抑え込もうとする、今の土木・建設造作の先には命を養う力を失った殺伐たる国土しかないのです。



紀伊半島の参詣道が世界遺産に登録されて以来、この険しく、起伏に富む豊かな土地に次々に新たな車道が整備されていきました。新たな道はますます強引に、大規模に自然環境を破壊しながら無機質に。地形を無視してつくられます。
 この新たに整備された国道、正面の尾根を大規模に削って、そしてコンクリートで留める。これがかつての日本人の魂の故郷へ続く祈りのための参詣道としてあるべき姿なのでしょうか。



そして、尾根を削った膨大な土で大規模に谷を埋めて大型重機で締固め、そしてその表面に、コンクリート水路を配す。世界遺産に通じる山間の一本の道の通行性のために、周辺環境の大規模な破壊が正当化される、こんなことが許される日本とは、一体どんな国なのでしょう。

 世界遺産という、ただ一点を、しかも現在たった今だけの経済的な観光資源として利用して、そして周辺環境に配慮せずに平気で悪化させる、いつの間にこの国はそんなことが平気で行われるようになってしまったのでしょうか。
 そんな人間、自分もそんな人間という生き物の一人であるということが恥ずかしく、そして許せない想いに憤りを抑えることができなくなります。



 100m近くも谷が埋められて、もうこの谷は空気も流れない死の世界となります。
そしてまた、いずれはここが崩れるばかりでなく、上流流域全体の森が衰弱し、弱体化し、新たな土砂崩壊を多発させることでしょう。



 新設道路沿い、残土は無造作に山に放られ、周辺木々は倒れ、枯れていく、そんな光景が新設の国道沿いに当たり前のように広がります。
 これを誰が許せるというのでしょう。

 今、日本はおそらく、最悪の時を迎えていること、こうした工事やその後の環境劣化を目の当たりにして、震え上がる憤りが収まりません。

 仕事もたくさん詰まっていますが、こんな現状を放置できないのです。

見たくない、この場から逃げ出したい、旅の途中、何度そう思ったことでしょう。しかし、逃げてはいけない。木々や自然環境が助けを求めているのだから。これに気付いた一人として、きちんと戦っていかねばならない、そんな役割が新たにのしかかってきたことを実感させられた旅となりました。

 大地の苦しみ、木々の苦しみ、そんなことに気付かなければ、楽しく旅もできて幸せだっだかもしれないと、何度となくそんなことを考えました。最近の日本、今はどこに行っても、木々やいのちの苦しみばかりがのしかかり、つぶされそうになります。でも、これが人としての贖罪です。温かないのちと共に歩んで、そして苦しみを分かち合えればそれがせめてもの罪滅ぼしで、そのために今、できることを速力を上げて臨んでいこうと、そんな力も湧きおこります。

きっと、南方熊楠も、同じ気持ちで戦ったことでしょう。

 こんな光景ばかりを1週間以上も追いかけてきた後、熊楠によって守られた野中の一方杉を見たもので、あの時、初めて慰めが与えられたような安らぎを感じ、涙が止まらなくなったのでした。

 第2部は、もう少し明るさの見える報告をしたいと思います。年始早々にこの長文にお付き合いくださった方、心からお礼申し上げます。
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。





投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
新潟市 海岸防災保安林の環境再生  平成27年11月26日



 3週間ほど前に実施いたしました新潟市北区海岸松林(飛砂防備保安林)の環境改善作業。その際に補植した、松苗の経過観察写真が現地から送られてきました。
 11月初めという時期外れの植樹にもかかわらず、芽の伸び方動き方から、苗木の根が順調に伸長している様子がうかがえます。



 植樹後約三週間経過した松苗マウンドの様子。(平成27年11月4日植樹、11月23日撮影)
 保安林内の松枯れの跡地に、こうした補植地を今回の作業で5か所ほど設け、経過を観察していきます。

 今回、松枯れ跡地の補植の手法として、従来とは全く違う、古くて新しい手法にて提案し、実践いたしました。 
 その補植方法の主な特徴は、端的に述べると、土壌の通気改善を施したうえで、土中通気孔の掘削残土を盛り上げてマウンド上の起伏地形をつくり、その上に、苗木を1平方メートル当たり5~6本程度という、超密植を施し、そして表土は落ち葉や枯れ枝・敷き藁などでマルチして表層の土壌構造を守る、といった手法です。



 マウンド植樹施工中。枯れ枝などの有機物に炭をまぶしながら、通気孔となる縦穴掘削の際に生じた残土を重ね合わせて盛り上げます。つまり、このマウンドつくりにおいて、基本的に他から土を運び入れることなく、現地の地形造作と主に林内でかき集めた枯れ枝や幹などの有機物によって、樹木成長に適したマウンドを積み上げてゆくのです。

 そして植樹後、表層にまた炭を敷きます。多孔質で保水性がよく、雨滴や踏圧を受けてもその構造は壊れることなく持続し、様々な微生物の住処となって土壌改善の起点となるのが、炭の力です。
 乾燥しやすく有機物も溶脱しやすい海岸の砂地にあって、炭の利用は、その土地の土壌化を促すためのカギの一つとなるのです。



  植樹後の仕上げに、新潟市内の農家さんから集めていただいた稲わらを敷き、表土を覆います。

 一つのマウンド面積は2~3㎡程度、そこに10~15本程度の松苗を植える、そんなマウンドを林内に点在させてゆくのです。 

 密植は個体間の伸長成長における競争効果を生む上に、お互いの根が伸長して絡み合い、あるいは根の伸長に伴って一部枯損し、それが地中に有機物を供給し、土中生物の餌となって分解されるに従い、さらなる空隙を土中に作られます。それが通気孔透水孔となって土中の生き物活動はより深くにまで活性化していきます。

 また、密植された苗木どうしがスクラムを組むようにまとまって伸長してゆくことで、猛烈な海風や砂塵吹き荒れる厳しい海岸沿いにおいて、お互いを守りあう密植植樹は非常に効果的です。
 この手法であれば、植えつけた直後から競争効果と共存効果を併せ持ちながらも、多様な環境維持と健全な空気通しに欠かせない林内の空間を保つことができます。なおかつ、掘削した土をマウンドを盛り上げることで土中の水と空気の動きやすい起伏地形が、植樹と同時に作られてゆくのです。

 植樹マウンドはその後、成長状態を見ながら間伐し、1マウンドにつき、最終的に2~3本程度の松の成木を育てていきます。間引かれていった松の根は、土中の生物によって分解されて養分を供給するばかりでなく、土中に新たな空洞を作り出し、さらに生き物活動のさかんな土壌構造を作り出していきます。
 つまり、枯れ木や間伐木の根も、それが土へと帰ってゆく過程で、健全な森林育成のための不可欠なものとして活かされるのです。

 従来、松枯れに対して、その衰弱や枯死を、単に直接の原因である松くい虫の被害として結論付けてしまい、農薬漬けにし、その環境そのものは全く改善されないままに、またマツを植えて育てるという、果てしない間違いを繰り返し続けてきたのです。

 その土地の環境でどうして健全に育っていかないのか、なぜ次々に枯死してゆくのか、その根本の原因を環境全体の視点から見直さなければ何の解決にもならないのです。



 改善作業から約20日経過した松林の表情。(平成27年11月23日)
 改善の結果を判断するための経過観察は、まだまだ時間が必要ですが、枝先、葉色、ともに、順調に根が動いているように感じる気がします。



 改善作業前の保安林内。(平成27年11月3日)
 林内は藪状態となって不快な空気がねっとりと淀み、倒木、傾木も目立つ、そんな不健全な空気感に覆われていたのです。

 今回の作業は、砂地における深部の土壌化促進と根系の誘導・活性化のための土中環境つくりといった、いわば目に見えにくい土中の環境改善を中心に行ったのですが、地上部の光通し、風通しは土中の水と空気の動きと表裏一体に現れるため、おおよそ地上部の様子や空気感から、土中の様子は感じ取れます。



 改善作業終了時の保安林内。(平成27年11月6日)
 今回、松枯れが進む新潟市北区の海岸保安林において、これまでは行政としても打つ手もなく、ただただ農薬散布と枯死木の伐採燻蒸を繰り返しつつ、さらに環境を悪化させ続けてきたのでした。
 そんな劣化した海岸保安林において、単に松を枯らさないという視点ではなく、ここを健康な自然環境として再生してゆく、その実験実証区を設定し、改善作業の実施にいたりました。
 

 新潟市の篠田市長からの依頼を受けて改善手法を提唱し、そして実証作業を終えてから、はや3週間となります。この体験をブログに記そうと思いつつも、年末の怒涛の忙しさの中、時間ばかりが過ぎてしまいました。

 保安林として、これまでに前例のない素晴らしい取り組みを新潟市が決断し、そして実行されたことは、本当の意味での日本再生、国土再生のスタートにもなる、重要な節目となるかもしれません。

 新潟市海岸松林再生と、そこにいたる経緯をすべてここで記載したら、それこそ一冊の本になってしまうほどの膨大な報告となってしまうため、きちんとした報告はここでは割愛いたします。

 今回はつれづれなるままに、海岸松林に対して私が集中的に向き合ったこの数か月を思い起こしつつ、少しだけ、(とても長くなりますが・・)、溢れる想いをつづりたいと思います。




 ここ数十年、急速に枯死が進む新潟市の海岸松林。これも30~40年前までは立派な松林の中を裸足で歩いたほどにきれいな、精気にあふれた心地よい環境だったと、地元の方は言います。



 改善作業現場付近、この荒れた列状の林も、つい30年くらい前までは生き生きとした松林だったのです。
 写真右奥に見える列状の緑地帯も、新潟平野独特の砂丘列の一つですが、これも今はほとんど壊滅し、その後に侵入したニセアカシアでさえ、ここ10年程度の間に次々に枯れ、森全体が矮小化し、見た目にも殺伐とした環境へと急速に変貌してしまったことが、現場の様子からうかがえます。

 なぜこうなってしまったのか、その原因は複合的ではありますが、直接的で本質的な主因は、土中の水の停滞にあることが分かります。

 この地域で昔から浜サンベと呼ばれるこの水田は、海岸沿いの砂丘列の間の低地に開拓され、砂丘からの湧水のみで、この広大な田圃の営みが成立してきました。
 つまり、砂丘列の下にはそれだけの水量が常時、動いているのです。

 砂丘下の水の動きは、単なる砂丘林の土中の貯水と湧出だけでは説明できない水の動きであって、それは近隣の大河川、阿賀野川水系と連動していることが予測できます。

 約20年ほど前、ここに砂丘上を縦断する、舗装道路が整備され、そしてその頃に砂丘の田んぼ側にも、盛土、写真の車道が作られました。これによって、土中に盛んに供給される水の動きが遮断され、砂丘下に停滞したことが予測できます。
 松林の衰退と枯死、森の不健全化はちょうどその時から加速したことが、現状から推測できます。




 以前は立派な松林であった、この砂丘列の谷部は今、水がはけずに沼地の状態となっています。



 土中に滞水した水が全く動かない、砂丘底部。
 豊かで健康な自然環境が息づくためには、地下水脈の円滑な流れが不可欠です。これが滞るということは、人間で言えば血管が詰まった状態を意味します。
 こんな環境にしてしまった大きな原因は、土中の水と空気に配慮することを忘れてしまった強引な人間の所作にあります。
 開発や土地造作の際、大地の呼吸をつかさどる水脈の維持に対する適切な配慮さえなされていれば、少なくともこれほどの壊滅的な環境劣化はあり得なかったことでしょう。



 砂丘林上部を掘ると、落ち葉落枝の分解が進んで土壌が形成されているのは、表層10センチ程度にとどまり、その下には土中生物も活動できない乾いた砂地が続きます。

 松の根は、その生育段階でこの砂地にも深部に向かって伸びていきますが、伸ばした根の先端が細根化して水や養分などの物質摂取するためには、通気してなおかつ乾燥しない、健全な土壌環境に到達しなければなりません。そうした場所を求めて伸ばした根が、そんな環境に到達しなければ、その根は太ることができずにやがて枯れていき、その現象は、枝枯れ、先端枯れ等の地上部の様相にも現れ、大きくなれずに枯死していきます。



 深部に根を伸ばすことができず、植物の根は表層で競合して絡み合い、まるで絨毯のように剥がせます。この地下で詰まってしまった根の様相が、地上部のヤブ状態の林相に顕れるのです。



 表層10センチより下はすべて、ぱさぱさの砂。砂丘の土壌化は全く進んでいないことが分かります。
 
 健康な海岸林を育てるためには、こうした砂地において、深部にまで有機物が供給され、土壌生物活動に適する土壌化が進む必要があります。
 
 かつて、健康なマツ林だったというこの砂丘では、土中の水脈を通して土中深部に空気が送られ、それによって植物根や土中生物も活性化され、そして土壌が生成されていたのでしょう。
 
 こうした環境をどのような視点と手法で改善してゆくべきか、そのためには、こうした砂丘地における自然の土壌化作用の仕組みを知る必要があります。
 
 現在進行形で砂丘の土壌化が進む姿は、この海岸林にほど近い阿賀野川河口で見ることができます。



 阿賀野川河口付近の潟湖(ラグーン)です。その形状は常に移り変わり、数年、あるいは数十年単位で移り変わります。
 本来の越後平野にはこうした潟湖が点在し、水鳥飛び交う独特の豊かな光景が広がっていたことでしょう。

 新潟平野、それは信濃川と阿賀野川という、日本有数の大河川が流れ込み、そして佐渡島へと浅瀬が続く海では暖流と寒流がぶつかって押し寄せる、そんな、陸地と海の双方の巨大なエネルギーがぶつかり合う、日本でも独特の風土環境と言えるかもしれません。
 そしてそのエネルギーバランスの中で、海岸線に平行して十数㎞に及ぶ内陸にいたるまでの10数列もの砂丘列が形成され、そしてその砂丘列の上に、古くから人の暮らしが営まれてきたのです。



 こうした砂丘の発達する地域での暮らしは常に、吹き付ける砂と潮風との折り合いが避けられません。
 日本海岸の季節風がもたらす砂嵐は、おおよそその経験のないものにとっては想像できないほどのもので、一日で家屋が砂で埋まってしまうこともあるという、そんな猛威の最前線の環境なのです。
 そんな環境だからこそ、数年で地形が変わってしまうほどの生々流転を繰り返す、生きた大地の動きを目の当たりにします。



 今、阿賀野川河口を塞ぐように砂丘が伸び続けています。この大河川の河口幅の半分以上はすでにこの砂丘堆積によって埋まってきており、そして新たな潟湖が形成されつつあります。
 後に述べますが、この、水流のぶつかり合いによって弧を描くように伸びてゆく砂丘の在り様が、ここが豊かな土壌へと育ってゆくための鍵となるのです。

 今年の8月、現地調査の際、自然の作用によって堆積した砂地が、わずか数年単位の短期間で豊かに土壌化し、そして緑に覆われてゆく様子を目の当たりにし、それが今回の松林環境改善の手法につながりました。



 新たな砂丘の先端付近に、植生、生物環境共に発達している一帯がありました。
 この地の砂丘生成は数年程度のことですので、その短期間でなぜこの一帯が、環境として育ったのか、その理由には、ダイナミックな水と風の営みがあったのです。



 台風や雪解けなど、阿賀野川の増水の度に上流から運ばれてきた流木や草枝は、河口に円弧上に伸び続ける新砂丘にぶつかって、そこで絡み合い、堆積します。



そしてさらに、風によって運ばれた砂が流木の上にかぶさって、ちょうど有機物と無機物がサンドイッチ状に重なり合って盛り上がっていきます。流木と砂との絡み合いが砂地の表層を安定させて、そしてそこにはまず、飛砂堆積に負けずに伸びるイネ科植物等が進入していきます。



 堆積したばかりの砂地を掘っると、枝葉は腐植分解が適度に進んで、健康な腐葉土の香りが感じられます。そしてこのあたらな陸地にすでに様々な土中生物が見られ、活発に生態系が織りなされつつあることが分かります。

 円弧上に伸びた砂丘に干満繰りかえす阿賀野川の流れがぶつかり、そしてその水位変動によってポンプのように土中に空気が送り込まれ、土壌環境が育っていたのでした。



 こうした場所に最初に進出してくるチガヤなどのイネ科植物たちは、砂を捕捉して地表を安定させつつ、土中環境をさらなるステージへと導いていきます。



 砂丘生成後わずか数年でも、流木が運ばれて堆積したこの環境で、有機物に富む、砂となります。この有機物が分解土壌化の過程で、保水性を持ち、無機的な砂地を、様々な生き物や草木が生きていける健全な大地へと変えていくのです。



 そして、すでに多種の植物に覆われた箇所は、ここが堆積してからまだ10年にも満たない、海岸最前線の砂丘上であることが信じられないほどに、土壌化が進んでいたのです。
 このままここが放置されれば、いずれ海岸自然林へと移り変わってゆくことでしょう。

 ここでは、先に述べたように、不健全な海岸林の土中が全くの砂のままに変化しない状況とは、まるで正反対の作用が働いていたのです。

 海辺の砂丘地のような厳しい環境において、どこでもこの土壌化作用が自然に行われるわけではなく、土壌化されない箇所は地表が安定せず、植生も育ってはいきません。
 
 逆に、こうした健全な土壌化作用が自律的に進行するためのきっかけを人為的につくることで、私たちは自然とうまく折り合いをつけて利用しつつ、共存することも十分に可能なのです。

 このことについて、かつての土木技術の一例から、少し紹介したいと思います。

 

 これは山梨県、釜無川・御勅使川沿い、かつて洪水の力を弱めるために考えられたという、「聖牛」と呼ばれる河川工法です。
 丸太を組み、その重しに蛇籠で包んだ河原の石を乗せただけの、ごく単純な工法です。

これを、氾濫しやすい河川堤防沿いの水面に並べて、あとは自然の作用に任せるのです。

 戦国時代の甲州で、川の氾濫を収めるために考え出されたというこの構造の単純な「聖牛」は、昭和30年代まで、河川工法として用いられていたのですから、驚きです。



この工法の特徴は、単に構造物によって川の力を弱めるというものではなく、洪水時に上流から流れてくる流木や草を絡ませ、それによってさらに補強され、洪水の勢いを和らげ、そしてなんと、川の地形までをも、人にとって都合のよい姿へと変えてゆくきっかけを作るというものなのです。

 絡みついた草や流木は、お互い絡み合うことでその重量と水圧を支えるだけの支持力を発揮し、適度に水を受け流すことで、こんな程度の構造物が洪水にも氾濫にも流されることなく機能するのですから驚きです。
 つまり、これは洪水時に運ばれてくる流木を絡ませることを念頭に置いた、自然の力を活かして設備を補強し、自然の猛威をコントロールする、そんな装置なのです。




 水位上昇の際に丸太に絡んだ草はがっちりと絡み合い、容易に外せません。



そして、絡んだ枝葉は分解されて土壌と化し、そこに草が繁茂して、その人工島である聖牛はさらに安定していきます。水の勢いが常に弱められる聖牛の背面に州浜が生じ、それが繋がって、そこに中洲を生じせしめ、それが自然堤防としての機能をそこに実現させたのでしょう。



 川岸に平行して点々と置かれた聖牛沿いに州浜が発達している様子がうかがえます。



 こうして生じた聖牛沿いの州浜には、やがて草だけでなく、樹木も進入して、増水した水のエネルギーがぶつかる場所を陸地化し、川の流れをも変えてゆくのです。



 聖牛背面にできた州浜も、樹木が定着する箇所ではすでに土壌化が進んでいます。絡んだ流木や草が分解して砂と混ざり合って良質な土壌となり、そこにさらに根が活発に張りめぐらされて新たな陸地が生まれます。

 洪水時の川の中で、本来であれば土壌のような細かな粒子は押し流されて、川底は石と礫のみとなるものです。そこに、川の流れを変えるほどの地形が生じてそれが自律的に維持されるためには、自然の力、植物の力を借りる以外にありません。
 そして、この陸地化と水辺に生まれた植生によって水流が弱められ、そうした箇所に形成された土壌が堆積して樹木が根付き、そして洪水にも流されずにその勢いを和らげる陸地が、必要な場所に形成されてゆくのです。

 

 自然の陸地へと生まれ変わった聖牛の跡。
 人がきっかけをつくり、そして自然の作用によって地形を変えてゆく、そのために、流れてくる枝葉草を捕捉して遷移させてゆく、そこには何の無理もありません。
 土壌化、そして土地を保つためにも大地を健全に息づかせることの大切さは、かつては誰もが体感として理解していたことでしょう。
 息づく大地、それを再生してゆくための大切な視点は、こうしたかつての人の営みの中にたくさん見られるのです。



 松林の環境改善のポイントは、土壌化の進まない砂地深部に、線上、点状に空気の通りを作り、そして有機物漉き込みによって土壌化促進のきっかけを作っていきます。



 漉き込む有機物は、保安林内の落枝や枯れ木の他、市内でゴミとして回収された、庭の剪定枝葉を大量に用います。ここでは大型回収車満載、12㎥ほどの枝葉を運び込みました。
 これらが大地を再生する欠かせない資材になることを想うと、落ち葉や剪定枝葉までもが大地に還元されることなくゴミとして焼却されてしまう、そんな戦後の日本の在り方は一刻も早く転換されなければならないと感じます。



 土中への有機物漉き込み作業中。
掘削した残土も、林内に起伏を付けて表層の水が動いて浸み込みやすい微細な地形つくりに活かします。



 保安林を縦断する車道沿いを掘ると、縁石際で行き場を失った松の根が横に走っています。そしてここでも砂地の土壌化は見られません。
 この根の動き方からも、土中の水脈もここで分断されていることが分かります。



道路際の高低差を活かして土壌中の水と空気の動きを促すべく、道路際を掘削します。



そしてそこに、枝葉を絡ませながら柵を立ち上げていきます。



 道路際の枝絡みによる縁切り柵。この側面から通気することで、土中の水と空気を動かし、土壌化促進を促します。
 この枝絡みは1~2年程度で土に還りますが、その頃までにはこの表層は細根で覆われて土壌となり、そしてそこに新たな地表が生じて地形を支えることでしょう。

 こうした一連の作業によって、これまでごく浅い表層でしか土壌化されなかったこの場所が、土中深い位置にいたるまで木々が細根を伸ばして呼吸でき、そこで土壌生成が進行し、松を中心とした海岸林が、厳しい環境にも病虫害にも負けずに健全に育ってゆく、そんな環境つくりを目指します。




 これは隣県である富山県の海岸松林です。特に冬の季節風の影響を受ける日本海岸では江戸時代以降、各藩によって、暮らしを守るための海岸松林が盛んに造営されました。

 江戸時代の優れた松林の風景は、白砂青松という言葉で表現されるように、日本の原風景の一つにもなりましたが、今残る海岸松林の多くは近年に造営されたものであって、その質も風景も、かつてのものとはかけ離れたものであることを認識する必要があります。

 そもそも、なぜ松が、海岸林の主木として適するものとして用いられ続けてきたか、その原点を考える必要があります。
 クロマツは、地下水の滞りのない環境であれば砂地にも根を土中深くに降ろしていき、その長さは最大で10mにも達します。そんな樹種は日本には他にありません。
 その上、潮風に強く、そして気候や土地への適応範囲がとても広いがゆえに、人間にとっても非常に扱いやすい樹種でもあるのです。
 また、健康な松は、他の樹種とは比較にならないほどのたくさんの樹脂が樹幹内を流れ、穿孔虫にも強く、さらには樹幹の粘りが強いため、健康な松であれば津波の勢いをも和らげてしまうほどの力を持つのです。
 近世以降、大型化した家屋を支える重要な横架材である梁材には決まって松が用いられたことからも分かるように、松は他の樹種には到底及ばない、そんな強さを持つがゆえに、海岸最前線の防風防砂林の主木として扱われてきたと言えるでしょう。

 今の日本でも、海岸松林は風致上、あるいは防災上、手厚く保護育成されているところがたくさんありますが、木々が健康に生きていける元環境から育成、あるいは再生するという視点を持たずに打たれる様々な方策はすべて意味が薄く効果もなく、形ばかりの松林はかろうじて残っても、それは今や、かつて日本人が愛した健全で空気感のよい、我々の暮らしの環境を力強く守ってくれたかつての本当の松林とは全く異なることを知る必要があります。

 松林についてはまた、別の機会にどこかでお話ししたいと思いますが、本来の健全な松林とは、決してマツだけの林ではなく、高木である松の下に様々な広葉樹、下草の共存する、「松を中心とした林」だったことは間違いありません。
 今、そうした環境全体を考えず、ただ単に松だけを人工的な対処をしてでも活かそうとするその考え方が、自然環境の衰退・脆弱化につながっているという、ごく単純なことに早く気づいて方向転換していかねばなりません。

 今回、新潟市において、海岸松林の再生を、その元環境から健全化するための試験的な取り組みが、日本で先駆けて実行されるに至りました。 

 こんな取り組みが結果を出し、、そして全国に広まっていけば、かつてのように人と自然と共生できる、新たな未来へと道が開ける、そんな可能性が見えてくるかもしれません。

 ほんの小さな取り組みですが、未来へ繋ぐ新たな一歩になることを信じて、今後この海岸松林の再生の道筋をつけることができるよう、注力したいと思います。



 改善作業直後の松林試験区。次々に枯れ続けて荒れてゆくこの森が、今後どのように変化してゆくか、時間の経過が楽しみです。

 同時に、人間のやることなど、完全なことは何一つなく、今後も経過を見ながら、どう手をかける必要があるか、あるいはそのまま自然に任せていけばよいものか、その都度現場で感じ取り、対処してゆくことがなにより大切だと感じます。

 今回の仕事に関わる中、とてもたくさんのことを学ぶ貴重な機会となりました。


 今回また、新潟市以外の様々な松林を調査する中で気づいたことはまた、別の機会に紹介したいと思います。

 この素晴らしい取り組みの実現に関わられたすべての方に、心から感謝申し上げます。どうもありがとうございました。




  
 






投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
幼稚園の環境改善工事を終えて     平成27年9月6日

 お盆明けの工事を一つ、ようやく終えて、久々に心静かな日曜日を迎えました。仕事を通して感動を得て、そしていつも新たなことを学んでいきます。今回もそうでした。
 めまぐるしい日々の中、想いをブログでご紹介できることはいつもほんのわずかなのですが、久々のこんな静かな日曜日には、少し想いを伝えることができたらと思い、ちょっとご報告したいと思いました。




 ここは東京都小平市 なおび幼稚園。2年半前に植栽した木々はこの夏、涼やかな木陰を広げてくれています。



 園庭の外周には、子供達200名と一緒に植えた木々の苗は大きく成長し、2年半を経て、いまや高いところで4mを超える樹林帯となりました。
 わずか30㎝の苗木、小さな子供たちと一緒に植えたポットの苗木が、わずかな月日でこんなに立派に育ってゆく、こうした光景を目の当たりにすると、造園という仕事の常識まで問い直される思いがいたします。



 造園的にはおおよそ順調に景観が育っているように見えますが、実際にはこの庭も10年前の園舎改修以降、根本的な大地の環境劣化が進行していたのです。
 
 自然環境に対してよほどの愛情を持ちえない限り、あまり気付くことはないかもしれませんが、根本的な生き物環境の劣化は日本中で今や加速度的に進んでおり、そうした園庭の変化に気づいたこの幼稚園の園長先生は、健全な環境再生を私に依頼くださったのです。

 園長先生は言います。

「確かに木陰は増えて心地よくなったけど、この木陰は昔の木陰とは違う。なんていうのかなあ、昔の木陰は、そこに行くとひんやりと土の匂いがして、ふかふかの土の中に虫たちがたくさんいて、見上げると木の上に虫や小鳥の声が聞こえる、子供たちにそんな木陰で遊ばせたい。木陰があればいいってものじゃなくて、昔のような本当の木陰のよさを取り戻したい。」
 
 園長先生はさらに言います。

「10年前に園舎を建て替えて以来、土が硬くなって芝生もなくなってきた。何より今年は特に生き物が少ない、トンボも蝶々もバッタもコオロギもほとんど見かけないし小鳥も少なくなった。木があるだけじゃなくて、ここが昔のように生き物でにぎわう、そんな環境にしたい。」

そんな園長先生の素晴らしい想いに感動し、さっそく園庭の改善工事に取り掛かることになったのです。



 2年半前の植栽の際、柔らかで肥沃な土に入れ替えたのですが、それでも地中の空気と水が土中で滞ってしまえば、土壌は呼吸できずに急速に劣化し、そして生き物が生育できない硬い土壌へと、短期間で変わり果ててしまいます。
 実際に、この幼稚園で今年の大雨の際、雨水がはけきらずに建物に浸水するという出来事があったようです。これまでそんなことはなかったと思うと、それだけ土壌が機能低下が進行してししまっていることが理解されます。

 大地が息づいていたかつての環境であれば、傷んだ部分だけ土を改善すれば、あとは自律的に健康に息づく土壌が育っていったのですが、現代のように劣化して呼吸不全に陥った大地の環境においては、土の入れ替えだけでは、本来の健康な環境を取り戻すことができにくくなっているのです。
 
 反面、土壌の通気透水環境さえ改善すれば、大地はおのずと健全な方向へと再生されていきます。その、自然界の自律的な再生を手助けすることが、今は必要なのかもしれません。
 これからはそんな視点を大切に、人の営みが自然環境を苦しめることなく、全ての環境がより良くなるような、本来当たり前の配慮が普通になされる、そんな世界が実現すれば、人は持続的に幸せに穏やかに生きていける、日々、環境改善の現場で仕事し続ける中、そんな想いが確信となり、何かに背中を押されるままにこうして仕事を続けております。

 なおび幼稚園の土壌劣化は、10年前の建築時の機械踏圧や地形攪乱の影響、コンクリート水路などによる、土中の水と空気の動きの遮断などが大きな原因であることは、状態をきめ細かに観察する中で見えてきます。
 原因が分かれば改善の道筋はおのずと見えてきます。



 硬化した土壌は乾燥と過失を繰り返し、大地は呼吸しなくなります。そうした土には一部のバクテリアや嫌気性の細菌しか住むことはできず、生態系はますます脆弱にバランスを壊してしまいます。
 本来土壌は、湿度や気温、大気圧の変化に応じて地上と地中で自由に空気が行き来し、そして土中の様々な生き物や鉱物などによって吸収、分解、浄化され、そしてまた、心地よい土の香りと共に地上に湧きだしてくるというのが健全な空気の循環なのですが、呼吸できなくなって硬化した土は、もはや環境浄化という不可欠な役割を果たすことができなくなっていきます。

 今、都会を中心に勢力を急速に拡大している致死性の人食いバクテリアも、大地の生き物環境の劣化が招いた結果であって、人間の生存をも脅かすこうした環境変化は、土壌環境の急速な劣化を想う限り、残念ながら今後も急速に進んでゆくことでしょう。

 大地の呼吸環境の改善は可能で、それがいのち息づく環境の再生や人間にとって健康な環境つくりに繋がります。
 わたしたちにできること、たとえわずかな点のような土地であっても、呼吸する大地を取り戻していきたい、そんな思いで改善工事に臨みます。



 水と空気が浸みこみやすい緩やかな起伏の自然地形に戻しつつ、土中の空気を動かすために園庭全体に横溝、縦穴を穿っていきます。
 このわずかな地形落差によって、周囲に停滞した土中の水と空気が動いて抜けていきます。



 園庭に設けた約100カ所の縦穴通気孔に、コルゲート管を差し込んでいきます。



 園内の要所に3か所ほど、深さ1mほどの大きな穴をあけてそこに剪定枝葉を詰め、その上に園児用の小さなベンチをかぶせます。
 この下の穴は、土中の通気浸透を促すとともに、枝葉などの有機物分解がさまざまな生き物を呼び込み、ここは豊富な生き物活動が展開されます。
 子供たちが下を覗き込んで生き物の気配を感じる光景を想像しながら作ります。



 溝掘りによって土中の通気浸透改善の後、表層には木炭とウッドチップを敷き、その上に野生の芝の種を播種、目土をまぶします。
 通気性の改善された環境で、グランドの植物は改善されてくることでしょう。

 通気改善によるグランドカバー改善の効果は絶大なものがあります。以下に改善例を紹介します。



ここでは当社所有地の車道にウッドチップを敷いていたのですが、数か月前にそのわきに溝を掘って有機物を漉き込み、土中の通気性改善作業を行いました。
 写真は5月の様子です。冬の改善作業後、野生の芝生がすぐに進入をはじめ、ウッドチップを覆い始めました。



 そしてこれは今年7月の様子です。2か月ですっかりと、ウッドチップの車道は芝生で覆われ尽くしました。
 実はここは、2年前からウッドチップを敷いていたのですが、今年の冬に溝を掘って通気改善するまではすぐに土が露出して、チップの補充を繰り返していたのでした。

 土中の空気と水が動いてくれば、こうしてすぐに植物が力強い活動を始め、大地がみるみる息づいてくるのです。
 大切なのは、大地の呼吸環境への配慮なのです。



改善後のなおび幼稚園、10日程度の間に、木々の表情も穏やかに変化してきたことを感じます。また、足元のウッドチップも、来春にはきっとうっすらとした緑に覆われることでしょう。



 木の根元は土になりかけた枝葉の腐植をまぶして、森の林床の再生の引き金とします。
この腐植には炭化した枝葉、様々な生き物が住み付き、そこで子供は五感を研ぎ澄ませて見入ります。
 

 なんでも、危ない、汚いと、子供たちから排除していては、子供の五感も健全には育っていかないことでしょう。
 ここの園児は裸足で園庭を駆け回ります。素足で大地のぬくもりを感じるのですから、その大地は健康なものでなければなりません。

 この幼稚園の子供たちと触れ合う中で、人間によってよい環境とは何か、根本的な部分から学ばせてもらえます。



それにしても元気な子供達。この幼稚園ではいつも、平日の就園時間に私たちは工事に入ります。
 それは、子供達にも庭が変わってゆく様子や、自然や子供たちのために大人が一生懸命働いている姿を見せたいとの、園長先生の想いから、いつも子供たちの見守る中で、楽しく作業させていただいております。

 この子供たちが大人になる頃までに、悪化した環境をどれだけ再生していけるか分かりませんが、彼らのために頑張ろうと思います。



 最近、子供たちと一緒に作業することが多くなりました。それは本当に幸せで楽しい、かけがえのない時間になります。
 これは毎月行っている、千の葉学園(旧 あしたの国シュタイナー学園)の環境改善作業です。
子供たちは素直に作業の意味を理解し、純粋な愛情を持って、いのちの環境に接します。こんな美しさを持ち合わせている大人は一体どれほどいることかと思うと、彼らの美しさを守りたい、そんな想いが熱くこみ上げます。



 土に触れ、そこに形ができてくる、子供たちは一心不乱に土壁塗りに熱中します。



 大人でも大変な土の家つくり、子供たちはわずかな時間で集中して難なく作り上げていきます。こんな素晴らしい子供たちのために私たちができること、それは、環境をこれ以上壊さないこと、大人の都合やこじつけの理論ではなく、いのち輝く優しい世界を取り戻すことではないでしょうか。

 素晴らしい子供とのかかわりの中で、心の中の余計な部分が次々とそぎ落とされてゆくことを感じます。



 夏休み、田んぼの畔に暮らすわが子たちは、近くの川に泳ぎに行きます。



ザリガニ釣りに熱中する我が息子の夏。こんな時間を、たくさんの子供たちが普通に得られる日本に戻したい、そんな想いを強くします。



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
千葉 体験ダーチャフィールドのご紹介   平成27年8月26日



 ここは千葉県千葉市、当社の里山実験研修施設、通称「土気山ダーチャ」です。
3年ほど前、千葉市内の荒れ果てた山林を取得し、少しずつ整備を進めておりました。山の中腹に山小屋が建ったのは約3か月前のこと、それ以降、ここは様々な学びや出会いの場としての活動を始めております。

 今後、この山の自然環境を育みつつ、そして体験フィールドとして多くの人に、街のすぐそばでありながら、この心地よい里山の風や小鳥のさえずり、虫の音に浸っていただき、そしてここでの暮らしの体験から何かを感じていただたいと思います。

 今回、土気山ダーチャの様子を少し紹介させていただきます。





 建ったばかりの山小屋のデッキ。山の斜面を造成することなく、傾斜地に佇むデッキは、地面から約3m程度の高低差があります。この位置から見る木々はまた、下から見上げるのとは違って、小鳥や虫たち、木々達と同じ目線にいるがごとく、包まれた一体感があります。



 梁や柱、桁などの構造材には解体民家の古材を再利用しています。建具もすべて、古民家の古材です。

 採暖、煮炊きはすべて薪、だるまストーブと3台のロケットストーブがここでの暮らしの中心となります。



 小屋建築にあたり、この大地を極力傷めることなく、すぐにこの土地の自然環境に溶け込ませるためにできる限りの配慮をしました。

 整地せずに傾斜地をその傾斜のままで建てるため、「石場建て」という、伝統的な工法で建てます。傾斜のままに石を据えて、そしてその上に柱を建てていきます。
 こうした配慮で建築工事に伴う自然環境へのインパクトを最小限にとどめ、息づく自然環境の命の源である大地の通気水脈を極力乱さないようにしております。
 また、この工法のメリットは自然環境に対する優しさばかりでなく、床下土壌通気性と風通しの良さが木部の耐久性、乾湿調整の面など、人の生活環境としても、今のコンクリート基礎では決して得られない優れた機能があります。

 この山小屋の材料は、木と石と土、自然界の三元素でつくられる本来の家は、全てを大地の循環の中に還してゆくことができるのです。




山小屋の脇には、大地分解還元式のバイオトイレがあります。



そしてこちらが昨年作ったバイオトイレ第一号です。



 バイオトイレといっても、見た目は単に素掘りの穴があるばかりなのですが、穴底の土の通気浸透性と、地際の風通しに一工夫しております。

 使い方は簡単で、使用後は左右のバケツから木炭ともみ殻をぱらぱらとまぶします。ペーパーは左わきのボックスに入れて、溜まったらこれは燃やします。

 悪臭はまったくなく、イベントでの大勢での使用にも十分に対応できます。その上、糞尿は通気性のよい地面ですぐに分解されるため、くみ出す必要もほとんどありません。そして土壌通気性に配慮した環境の下で微生物はじめ土壌生物の餌となって、この山の生物環境を豊かにするための一助となるのです。
 ここでの暮らしでは、有機物はすべて大地の循環の中に還してゆくことで、この土地をより豊かな環境へと育むのです。

 大事なことは土壌の通気浸透性であって、これが呼吸しない土壌であれば糞尿は腐敗して悪臭を発してしまいます。
 呼吸する健康な大地を育てることこそが、健全で究極のバイオトイレの浄化能力に繋がるのです。




そしてこれは、先週完成したばかりの五右衛門風呂です。



 ドラム缶にお湯を沸かす、簡単なお風呂です。



 五右衛門風呂の焚口も、ドラム缶で作ります。薪で炊くお湯は柔らかく、まるで温泉に浸かるような心地よさがあります。

 風呂の水はすべてこの土地の土中に還すため、石鹸やシャンプーは基本的に使えませんが、薪で炊いた柔らかなお湯は、それだけで十分にすっきりと洗い落とせるように実感できます。



 土壌の通気浸透性と生き物環境としての豊かさに配慮した自然栽培畑。



 この山の環境改善が進むにつれて、生き物の気配がずいぶんと増してきたことを実感します。
わずかなスペースですが、このサンクチュアリに生きる生き物たちがいつの日か、周辺へと広がって地域の生き物環境の再生へと繋がってゆくことを願いつつ、いのちの営みを増やすべく、土地を育てようとしています。



 知人の依頼を受けてこの週末に開催した、自然環境講座&環境改善ワークショップ。



 山小屋での座学の後、山を歩きながら環境改善のための大切な視点を説明し、



 そしてみんなで改善作業を体験してもらいます。
自然環境のことは、実際に触れて体感し、そしてその後の経過を観察し、発見と感動を味わうことで真の理解が深まるものだと感じています。

 この日もみんな、日が暮れるのも忘れて作業をやめようとしません。そしてその表情から真剣さと充実感を感じ、ますます力がみなぎります。
 自然環境の再生は、それを体感する人に大きな力と喜びを与えてもらえる営みなのだと、改めて確信します。

 こうしたことを、大人にも子供にも体感してもらいたい、そうでなければ、人間も自然もますます壊れてしまうことでしょう。
 毎日のように繰り返される最近のおぞましい事件や、争いごと、なりふり構わぬ競争の他に、別の生き方を想像することすらできない今の政治経済社会を目の当たりにするにつけて、生の自然、生の命というものを実感してもらいたい、そんな想いがますます強まります。



 そして翌朝は、朝食前から自然栽培講座です。
 自然栽培畑は昨年の畝立て以降、約1年経過してようやく、よい感じで雑草に覆われた菜園となりました。
 この雑草と共に、この畑の生態系と地力を守り育ててゆくのです。



 講師は自然栽培指導者の熊田浩生さん。その土地の多種の雑草や多様な土壌生物の楽園として畑の環境を育てつつ、その地力に見合った分け前を収穫する、土気山ダーチャの菜園の健康状態や改善方法など、熊田さんから丁寧かつ的確なアドバイスをいただきます。



 お盆休みのお客さんたちと。スライドを用いた勉強会には子供たちもその場に参加しています。

 この小屋ができてから、様々な方がここを訪れ、そしてそのつながりから様々なことが始まってきました。

 ここでの出会いにいつも感謝しつつ、「場」というものの不思議な力を感じ、そして今後もいろいろとこの地を活用して、訪れる人の心の中に大切な何かを感じていただくことができればと思います。



 昨年開催した、第一回土気山環境再生講座の様子。
その後、講座やワークショップを重ねるにつれて、この山はますますにぎやかに可能性を感じる場として育ってきていることを実感しております。

 不特定の一般の来訪を受け入れられる公開施設ではございませんが、今後様々なイベント、体験学習、ワークショップ、研修施設として、様々活用していきたいと思います。
 興味のある方、何かの機会にこの場を活用したいと思われる方はどうぞお問い合わせください。
 また、団体等による、自然環境再生講座やワークショップ合宿等のご要望やご依頼も、相談受付しております。
 



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
黒部川源流紀行 完結編          平成27年8月13日


 入山して2日目、澄んだ青空のもと、黒部川源頭部の名峰、黒部五郎岳に登頂します。
遠くに見えるのは槍・穂高連峰です。
 北アルプス連峰主脈の中心に位置するこの山頂からは、360度の大パノラマが広がります。




 南方に、噴煙を上げる御嶽山が望めます。火山爆発は終息しても、こうしていまもなお、数百メートルに及ぶ噴煙が立ち上っている姿を遠望します。



 黒部五郎岳の北側斜面には、夏でも溶け尽くすことない広大な雪渓が点在します。これこそが、富山平野の豊かな生産力と土地再生力を数千年の時を超えて支え続けてきた、黒部川を中心とする水脈の源です。



 黒部五郎岳に限らず、黒部源流となる稜線下では、広いU字型の谷地形が刻まれています。
 ここは1万年くらい前までは分厚い氷河におおわれていて、その氷河の移動によって岩が削られ、こうした圏谷(またはカール地形)と呼ばれる、ヨーロッパアルプスを彷彿とさせる、高山特有の地形が生じます。
 
 この上部に今も、万年雪となる雪渓が残り、その雪解け水がカール中心の谷筋を流れ落ちていきます。これが夏でも冷たく清らかな水脈の発端となるのです。



 雪渓から浸みだす冷たく清らかな水は、多くは大地にしみ込み、地下の水脈を通りつつ、そして一部は地表を流れて谷筋の空気を冷やしていきます。
 そして谷間の水が作る地表の温度差が空気の動きを作り、地形に応じて複雑に入り組む植生を育むのです。



 白い雪は夏の強い日差しを吸収せずに反射して、いつまでも溶けずに地を覆います。、こうした白い雪渓の笠の下で、地温によって溶けた膨大な水が徐々に地にしみ込み、下へ下へと移動していきます。



 雪解けの岩場に点在して覆うチングルマや、



ミヤマキンバイなどの高山植物のほとんどは氷河時代の生き残りで、当時陸続きだったロシア極東部や樺太、カムチャッカの野草に共通します。



 小さな植物たちはこんな厳しい高山の岩山にも土壌を生成させていき、清らかな水を蓄えて、雪渓の水と共に絶えずその水を、人の暮らす平野部にまで送り続けているのです。
 そしてその清冽な水のとめどない動きが、流域の水と空気を引き込みつつ、土中に空気を送り込み、それぞれの環境に適応したにぎやかで変化溢れる健全ないのちの営みを育み続けてゆくのでしょう。



 雪に閉ざされる期間が長い、こうしたカールの底面には、高山性の草本群落が広がります。冷涼な気候の高山の草原はところどころ湿原の性質を帯びて、その表層土層に膨大な水を貯えます。



 中部山岳の稜線付近では、周囲からの流入水の得にくい高い位置にも、こうして池塘が点在します。
 雨が降らずともなかなか枯れることのない池塘の水は、高層湿原の特徴です。

 夏でも冷涼な気候に支配される高地では、低温のために植物の遺体は十分に分解されずに半分解の状態のまま、泥炭と呼ばれる黒いスポンジ状の土層が堆積していきます。
 泥炭層が厚くなれば水を蓄えてその株に不透水層を形成し、こんな高地の草原にあって枯れることのない自然の調整池となるのです。



 高山の地表断面は、こうした泥炭層と風化土壌とが層状に堆積している箇所が多く、このことが、高山の厳しい環境で繰り広げられる、風と水と雪とが作るダイナミックな変化を感じさせます。
 高山草原と高層湿原を繰り返しながら、大地に土層を刻んで、その性質の違いから複雑な水の動きを生み出して、そしてこの地で様々ないのちの営みを許容する可能性を育んでゆくのでしょう。



 そして、ちょっとした地形の変化によって水の動きは大きく変化し、それによって植生も大きく変わります。
 そのわずかな地形変換線となる境界部分は、高山の厳しい環境で深くえぐられて縁が切られ、そこに水と空気の通り道が作られて、それがお互いの領域へのインパクトを緩和して、それぞれの領域における環境を区切り、植生を見事なまでに分かつのです。

 そして、若干の傾斜を持って高位を得た面は、ここではチシマザサを中心とした群落が広がります。
 そのチシマザサを含め、草原はまるで刈り払われたように整然と、低い均等な高さで密生し、まるで動物の毛皮のように土壌を覆って地表を露出から守っています。

 このきれいな刈り払いこそが、高山を抜ける風の仕事なのです。

 競争して上へと伸びようとする植物たちも、その土地の土壌の質や量によって、上部へとあげられる養分も水も制約されます。こうした栄養の乏しく有機物土壌層の薄い高山では特に、ある一定の高さよりも上には、勢いの弱く細い新芽しか立ち上げることができなくなります。
 これを、高山の強風が撫でるように刈り取っていくことで、こうした刈り込みのような整然とした地表のマントが形成されるのです。
 そして、風が上部を刈り取るという作用が恒常的に行われることで、植物はその環境を把握し、受け入れて、その環境条件の下で生きようとすべく、根の徒長成長を諦め、地上部の高さに応じた根の位置で細根を盛んに出していきます。
 そして地表に密生した細根は土壌を浸食から守るだけでなく、しっとりした細かな隙間から水を浸透させて土中に蓄えられやすい状態を作ってゆくのです。

 風が行う植生の制御、水や土の管理、そしてそれが土壌生成に大きく寄与して、この土地の恒常的な生態系を作り上げてゆく、そんな自然の摂理に改めて驚嘆します。

 こうした自然の摂理を人間社会に応用し、本当の意味で人と植物との共存関係をつくってゆくことで、どれほど人の環境は豊かで快適なものになってゆくことでしょう。

 今後は再び自然に学び、人の都合で自然を強引に制御しようとするのではなく、人も木々も草葉も生き物たちも健康に共存していける、そんな地球を目指すべく、生き続けたいと誓います。



大地の水が植物の作る細胞のような土壌の中をゆっくりと移動して凹地に集まり、そして沢筋が生まれます。ここでは風と水の微妙な動きの違いによって、沢筋にダケカンバ林を形成しています。
 植物たちが必死に生きる森林限界付近では、ちょっとした環境の違いで地表の様相が大きく変わる、そんなダイナミックないのちの営みを肌身で実感します。



 そして入山3日目、高山に囲まれた天上の楽園、日本最後の秘境とも言われる雲ノ平を望みます。
 雲ノ平は黒部源流の高山の山稜に囲まれて、池塘と岩と高山植物であふれる、北アルプス核心部の山上の草原です。
 そしてこの山域こそが黒部川源頭部となります。黒部川は広大で肥沃な扇状地を潤して息づかせて、そこに豊かな土地を作り、大地を浄化しながら富山湾へと注ぎます。
 
 11年ぶりに、水の楽園 雲ノ平を訪ねます。



 懐かしの地、雲ノ平を歩くにつれて、11年前とは確かに違う異変に気づきます。
 大地が乾いているのです。



 雲ノ平の木道沿いのかつての池塘はほとんどが枯れ果てて、そしてその底は乾燥してひび割れまで起こしているのでした。

 清らかな水をたたえて輝いていたかつての雲ノ平の記憶をたどるものにとって、この光景はすぐには理解できないほどの衝撃を与えます。



 山小屋の若い従業員に、「いつから水が消えたのか」と尋ねると、「しばらく雨が降らないから。雨が降ればまた水が溜まる」との答えでした。
 
 それは違います。高山や高緯度地域などの冷涼な湿地の池塘は、単なる水たまりでは決してありません。

 水を通しにくい厚い泥炭層に守られて周囲の草原のわずかな絞り水を集めてめったに枯れることのない、それが高層湿地の池塘です。
 そして呼吸する大地の高山では、晴天が続くと言えども、夜の間に雲が再び地表に降りて大地に吸い込まれ、あるいは草葉に付着して水滴となり、それがまたゆっくりと地上と地中を動きながら池塘に水分を供給するため、清浄な水がなかなか枯れずに存在するものなのです。

 そしてこの高層湿原の池塘こそがその地の水分バランスをコントロールして高山の命の絆を豊かにしてきたのです。

 それが実際に、この10年の間に池塘の水が簡単に枯れてしまう環境へと変わってしまったのです。
 おそらく、温暖化に起因する生物環境の変化の結果なのでしょう。

 乾燥してひび割れた池塘の底を見ると、すでに泥炭は分解されて通常の細粒土壌と成り果てていたのでした。
 氷河期以降の数千年のこの地のバランスまで、わずか10年の間に急速に壊れた様子を目の当たりにし、愕然と力は萎えて言葉を失います。
 山に力をもらいに来たのに。



 
 気を取り直して歩き出すと、水を蓄えた池塘に出会います。しかしそれはもはや、かつての清冽ないのちの水ではなく、淀んで腐った停滞水となっていました。

 この池塘脇のハイマツ(写真左側)は、滞水によるヘドロ化と有機ガスの影響で枯れ始め、周囲には滞水の地に優先するイワイチョウが覆い尽くしていました。

 まぶたに残るかつての楽園、日本最後の秘境と呼ばれたこの地も今や、あっという間に壊れてしまったことを知りました。

 もちろん、新たな気候環境が継続すれば、自然界はそれに見合った生態系を再構築してゆくことでしょう。
 しかし、今後もさらに、急激な気候変動は加速度を増してゆくことを想えば、その急激な変化に対して、どれだけ自然は対応してゆけるものなのでしょうか。

 人間の想定域を超える、そんな生き物の存立危機事態がすぐ目の前に来ていることを、雲ノ平の環境激変が教えてくれます。



 そして吉良アルプス核心域の雲ノ平を後にしてひたすら谷間へと下ること3時間、断層の合間を抜けるような黒部川本流に抜けます。
 山中に会って圧倒的な水量を誇る黒部源流は今もなお、力強く命を育むその役割を果たしているようにも感じます。



 下山後の帰路、安曇野の大王わさび農場に寄ります。安曇野の原風景のような風景が残されるこの地は北アルプスからの膨大な湧き水を導いて戦前に作られた日本最大規模のわさび田が広がります。
 ここはまた、黒沢明監督の映画「夢」の第8話、「水車のある村」の撮影がこの地で行われたことでも知られます。ここには今、年間120万人もの観光客が訪れる、安曇野随一の観光地となりました。


 
 
 一日に12万トンと言う膨大な湧水は年間を通して水温摂氏12度程度と一定で、ワサビの生育に非常に適した環境を作っています。
 今から100年近く前の機械のない時代、この広大なわさび農場開拓と共に地形造作による治水工事が人の手によって行われ、その結果、100年近くたった今に続く、美しい安曇野の原風景が作られたのです。

 美しい地域独自の原風景はこうして作られてきたのです。

 まだまだ書き足りない、感動多い実りある旅となりました。旅先で、頭の中はフル回転し、そして自分の生き方、仕事に対する熱い情熱が再び沸き起こります。
 あと数日で今年の後半戦が始まりますが、またいろいろあることでしょう。出会い、学び、そして良き社会を再構築するため、力と智慧を尽くしていきたいと願います。

 最後に、この大王わさび農場百年記念館で見かけた言葉をここに記して、旅報告を締めくくりたいと思います。

「自然の力こそ

誰もが、ひそかに流れる地下水が、いったいどこから来て、どこへ去るのかを知らない。
とにかく誰も、地下水のルーツをつまびらかには知らない。

 人は自然の恵みをあまりに当然のこととして享受してきたようです。
ところが最近になって、産業間や自治体間に水利用の競合が激しくなり、その結果、ようやく地下水のルーツに関心が高まってきて科学のメスが入れられるようになりました。
 しかし、十分な科学的調査、研究が行われる前に、安曇野は激変の時を迎えることになります。
 今やだれもが地下水や河川の汚濁、枯渇に気付くようになったのです。

 これは終わりではなく、むしろ大変革の始まりでさえあります。(このことは20数年も前から同じように言われ続けてきました。)
 ともすれば歴史的所在である風土が、つかの間のうちに滅んでしまう可能性さえもっているのです。

 つまり、人知の結集であるはずの近代化は、時として、優れた風土を踏み台にして、のし上がることがあります。

 自然と、先人たちの合作である秩序を簡単に破壊してはならない。

 安曇野の大きな包容力や優れた風土は人知によって、さらに育成、強化されねばなりません。

 そんな願いを込めて、ささやかながら、「大王わさび農場百年記念館」からのメッセージとして、ここに結びたいと思います。」


 

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | PermaLink
     
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